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自然と文化 第68号(ぼくの日記帳は、カメラだった。)

 事業名 観光資源の調査及び保護思想の普及高揚
 団体名 日本観光振興協会 注目度注目度5


ある写真家の誕生について [飛弾野数右衛門と東川町]
勇崎 哲史
◎1 誕生と少年時代◎
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役場に勤務し始めた昭和10年頃の飛弾野さん
1 誕生−父の想い
 北海道上川郡東川町に開拓の鍬が下ろされたのは明治28(1895)年。同年4月に殖民地貸付がはじまり、新天地を求めて香川、富山、愛知、徳島の各県からの団体、他府県からの個人移住者が多数入地する。開拓の許可が当時の所轄庁から下りたのは8月25日。やがてこの日が、東川神社の祭りの日となる。
 娯楽に乏しい時代にあって、東川神社祭典での一番人気は奉納相撲。俗に言う″草相撲″である。当時、5人抜きで50銭ほどの花銭が出た。強者たちはそれぞれに四股名を持ち、人気力士は近隣の祭りから声を掛けられ、草相撲を転戦する。
 冨士見山という四股名を持つ飛弾野平次郎は、明治35(1902)年、母さとに連れられ、富山県から東旭川に開拓農民として移住してきた。さとにとっては、当時15歳の平次郎ら5人の子を伴う、女手ひとつの移住であった。既に他界していた平次郎の父・平吉は明治8(1875)年から3年間、名古屋鎮台の常備兵として入営。明治10(1877)年の西南の役にも出兵した。若くして他界した父を誇りに生きる平次郎は、富山から東川へ移民していた7歳年下の斎木ヤイと出会い、結婚。大正3(1914)年、東旭川から東川に転居する。
 どこの草相撲でも、全ての取り組みが終わると力士たちが土俵上に集められ、勧進元から御神酒を振る舞われる。裸の力士たちは円陣をつくり、やがて酔いがまわる。そこでそれぞれの十八番が土俵上で披露され奉納相撲が締めくくられる。平次郎の十八番は浪曲。なかでも忠臣蔵四七士の一人″不破数右衛門″に心酔し、その浪花節の一席を披露しないと納まらなかった。そして、自分に子供が授けられたら、必ず″数右衛門″と命名する、と心に決めるほど、不破数右衛門への想いは深かった。大正3(1914)年3月27日、長男が産声をあげる。妻ヤイの猛反対を押し切り、平次郎は念願を叶え、嫡子に数右衛門と名づける。飛弾野数右衛門の誕生である。
2 少年時代−人の手でやれること
 飛弾野にとって、この歌舞伎役者のような名前で苦労したことといえば、習字に名を添える時「いつも尻づまりになって失敗ばかりしていた」という思い出以外にはないという。名前でからかわれたり、いじめられることもなく、「面白がられて、憶えてもらえるので得をしたことの方が多い」と振り返る。飛弾野には、2歳年下の妹・実、5歳年下の弟・茂がいる。その後、平次郎・ヤイ夫妻になにがあったのかは想像もつかぬが、妹弟としては極端にシンプルな名だ。
 飛弾野が誕生した年に、平次郎は麹屋をはじめた。味噌などの原料となる麹づくりだが、米作地・東川の農家の甘酒粕づくりにも重宝される。その四年後には家を工場に改造し、製粉業に転じた。農家から出る出来の悪い米を団子の原料に加工出来るということで繁盛した。製粉のエンジン音は夜も明けぬうちから鳴り響く。その音とともに飛弾野の記憶は始まる。そして製粉機の大きなフライホイルの不思議な動きや働きも好奇心の始まり。
 飛弾野が夢中になったのが機械いじりと工作だった。なんでも作ってみるのが好きだった。「人の手でやれることは自分でもやれる」と思っていた。時計の分解と組立ては序の口。近所の医者の息子がスキーを買ってもらったのを見ては、薄い板切れを探して釜に湯を沸かし、木の先を彎曲させてスキーを作った。ストックは竹の棒で済んだが、雪止め部分はブリキの煙突の端切れを加工して取り付けた。
 「モーターこそ機械の王様だ」と思った。鉄板を同じ型にくり抜いて、それを何十枚も貼り合わせ、モーターのコア部分をつくる必要がある。飛弾野はその型を作るために謄写版を用いた。鉄板を葉書大に切り、それに謄写版で描いた原図をプリントし、手でくりぬいて貼り合わせ、最後にコイルをグルグルと巻く。モーターは完成し、鈍い音を立てて回った。その音は王様の音だった。
 機械いじりや工作は大好きだったが、下駄の鼻緒が切れても、そういうことには無頓着だった。学校帰りに、鼻緒が切れたら下駄を脱いで、道端を流れる潅漑溝に投げ込んだ。水に流れる下駄の動きを観察するのが楽しかった。それを裸足で追いかける。潅漑溝が自宅の前に辿り着く時、この遊びは終わる。
3 カメラ−写真との出会い
 小学校を卒業すると、母に「食料検査員になりなさい」と勧められ、旭川にある庁立永山農業学校(現・永山農業高等学校)を受験し、合格する。母は言った。「食料検査員は検査する時に俵を刺して米を抜くけど、決してそれを戻さない。あれは一生食うに困らない」。
 農業学校に入学してまもなく、従兄弟から突然カメラをプレゼントされた。それは名刺判のガラス乾板を用いる国産カメラで、当時の定価では6円位のものだった。昭和3(1928)年8月、14歳の夏である。カメラをもらったけれど、どうしたら写せるのかわからない。旭川のカメラ店を訪ね、店主に教えを乞い、12枚入りのガラス乾板と印画紙、現像薬品を購入した。
 最初の撮影のモデルになったのは妹と弟だった。現像は夜にならないとできない。夜が待ち遠しかった。日が沈み、充分に暗くなった。教えられたように現像液に入れ、定着液にも入れた。終わった。すぐに明かりをつけ、結果を見た。像は確かに写っていたが、明かりに透かしてみても、透き通ったところがない。「これは、定着不足だなあ」と店主はいう。現像で黒化した以外の銀乳剤が抜け落ちるまで、定着液に浸しておく必要がある。定着液にはさっと浸けて、さっと取り出し水洗に移してしまった。最初の写真は失敗に終わった。
 当時はガラス乾板を専用の撮り枠に入れ、それをカメラに装着し、撮影した。撮り枠の表裏に乾板が1枚ずつ、計2枚がセットできる。飛弾野はそれを3台持っていた。つまり、撮影に持って回れる乾板は6枚。乾板の撮り枠への装着は暗黒になる夜にしか出来ない。したがって、一日に撮影できるのは6カットだけ。大事に、大事に、撮らねばならない。シャッターを切る時間は貴重で、被写体は愛おしい人やものごとに限られる。
 写真は機械いじりの好きな少年を充分満足させた。しかし、飛弾野を夢中にさせていったのはその満足感だけではない。被写体となった人たちにその写真を渡したとき、誰もが手放しに喜び、満面の笑みを送り返してくれることだった。








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