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◎蜜桶◎
 伊那谷に現存する様々な形態の巣箱のなかで、特に注目されるのは、横置き型文化圏において利用されている、蜜蜂専用の桶(蜜桶)([5])である。この桶は、外周の直径三五センチ、深さ五五から六〇センチ。伊那谷各地で、ほぼこのサイズの桶が使われている。
 大鹿村釜沢の内倉与一郎氏(明治四十三年生まれ)は、大正時代に蜂を飼い始めた時、蜜桶ごと群を買い取ったという。当時の値段で「蜜三升ぶり」、四十から五十銭であった。内倉氏は、昭和三十二年から三十三年頃大量に作った蜜桶を、今でも大切に使い続けている。村うちに桶職人がいなくなって久しいので、桶の補修や供給が困難になっているからである。伊那谷では、蜜桶がしだいに姿を消して、製作しやすい箱型の巣箱([6])に切り替えられている。
 江戸時代に書かれた「日本山海名産図絵」に、紀州熊野地方の養蜂の風景が紹介されている[8])。現在の紀伊半島で見られる縦置き型の巣箱とは異なり、当時は軒下から樽や箱が吊るされて、横向きに使われていたことが目を引く。
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[8]熊野地方の養蜂「日本山海名産図絵」
 伊那谷の中央構造線沿いの山村では、現在でも、江戸時代の紀州熊野地方の養蜂を彷佛とさせる光景が見られる([9])。このことは、かつて伊那谷の山村と熊野地方になんらかの関係があったことを連想させる。たとえば、南北朝時代の興国五年に、南朝方の宗良親王が大鹿村大河原に拠点を置き、以後三十年にわたって北朝方と戦った史実にも、両地方のかかわりがみてとれる。
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[9]横置き型巣箱の設置風景(上村下栗)
 江戸時代、伊那谷の中央構造線沿いの山村では、秋葉神社に参詣するための秋葉街道が整備され、人々の往来が盛んになっていた。「桶の歴史は比較的新しく、一般家庭で桶が使われるようになったのは今から四百年前頃」[桜井伴「伊那」第41巻1号所載]だとすると、中央構造線沿いに蜜桶が広まったのは、近世以降と考えられる。そこで、伊那谷に残されている横置き型の巣箱を探し出して、秋葉街道に重ね合わせてみると、静岡県水窪町草木から長野県高遠町松倉まで、約九〇キロにわたって蜜桶が連続的に分布していることが判明した([10])。
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[10]伊那谷における横置き型巣箱の分布
 さらに、前出の内倉氏から、「隣に住んでいた北澤清光さんは、山へ置く蜜桶の蓋だけに熊野蜂御入と書いていた」と教えられた。北澤氏は昭和三十年代に、家のまわりに隙間のないほど蜜桶を並べて、年に一石の蜜を搾ったという。北澤氏の住宅は、今では主を失って廃屋となっているが、そこから熊野蜜□□と書かれた一枚の蓋が出てきた([11])。内倉氏の記憶とあわせれば、熊野蜜御入と書かれていたはすである。
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[11]「熊野蜜□□」と墨書きされた蜜桶の蓋(大鹿村釜沢 故北澤 清光氏製作)
 伊那谷では、現在、ニホンミツバチを「和蜜」または「山蜜」と称し、「熊野蜜」とは呼ばない。しかも、北澤氏は蜂に御という字をつけて敬っている。澤田昌人氏によれば、熊野地方では「ミツバチは熊野さん(熊野大社にお祀りしてある神さん)のお使いなので、とった蜜をお供えせねばと、親の代からくどく言われてきたために、切り取った巣の一部を神棚にお供えして拝んでいる」[アニマ141号所載]という。
 北澤氏が蜜桶の蓋に書いた五文字の意味は、熊野信仰から読み解くことができる。山に置いて蜂が入るのを待つ蜜桶だけにこの文字を書いたのは、熊野さんのお使いを迎え入れる意味が込められていたのだろう。中央構造線沿いの山村には、熊野信仰とともに横置き型の養蜂が伝えられた可能性は大きい。信仰の中心から遠く離れた伊那谷では、いつのまにか信仰が廃れ、蜜桶だけが残されているのではないだろうか。北澤氏は、熊野信仰とのかかわりを証明する、伊那谷で最後の養蜂家だった。








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