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第一章 島原の町家と町なみ キリシタン弾圧の痕跡
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上 再現整備された島原城  下 湊道の教会昭和9年建築
 
1 島原の遺産
 島原市は、城下町から発展したまちである。それだけに歴史的な遺産が多くある。まちの中心部に島原城跡、その西方に武家屋敷の町なみがあって保存されている。これらの遺産に加えて、普賢岳の前山である眉山は、豊富な伏流水を湧水として城下町をはじめ周辺のまちまちにもたらしている。これら島原の文化遺産自然遺産は、以前から市民や市当局に注目されていた。そして、これらの遺産を「まちづくり」や観光に活かす、さまざまな文化活動や経済活動を積極的におこなってきた。
 普賢岳は活火山である。1990年(平成2)の大噴火は、島原半島のまちまちに多くの被害をあたえた。このことはまだ人々の記憶に生々しい。普賢岳は200年前の1792(寛政4)にも大噴火している。このときにも多くの家々を破壊し、地形をも大きく変え、人々の生命を奪い、生活に甚大な被害をあたえた。この200年余り前の噴火もよく記憶されている。調査のさいに家々で建築年代をお聞きすると、200年前の大噴火の後であるという答えがしばしば返ってくる。また、今回の調査地である白土町の白土湖は200年前の大噴火のときにできた。
 さて、近世の島原において注目される歴史的大事件は、1637年(寛永14)に始まる「島原の乱」である。この乱は、領主の過酷な年貢の取立て、キリシタンの弾圧などによる領民生活の困窮に起因している。キリシタンの徹底的な弾圧と熾烈な処刑によって、島原のキリシタンの根は断絶することになる。これらのキリシタン弾圧は、キリシタンでないことを誰にもすぐわかるような形で建物自体に表現する知恵を領民にあたえた。現在に残るこれらの痕跡として、家の正面入口に正月だけでなく一年中しめなわを飾っていることや、家の正面上手の道路沿いに仏間を張りだして設ける形式があげられる。これらはキリシタン弾圧の跡をしめす注目される遺産である。表に張りだす仏間形式は、明治6年(1873)のキリスト教解禁を境にしてなくなる。ただ、仏間ではないがこの位置に張りだしを作る家はその後もしばらくの間続いた。一方、しめなわを一年中飾ることは今も続いている。
 キリシタン弾圧の痕跡を伝える、つまり誰にも見えるところに、しめなわを一年中飾る慣習や正面に張りだす仏間がある町家に関しては、島原城、武家屋敷、湧水などの遺産とくらべて、市民の間でこれまであまり注目していなかった。市民にとってはごく普通のことでありごく当たりまえのことであったのである。しかし、このしめなわや仏間のことは、島原の歴史、島原のまちの景観、民家の歴史などの諸点からして見過ごすことはできない珍しい貴重な習俗である。
 今回の調査は上記の点に注目して「キリシタン弾圧の痕跡を残す町家と町なみ」と題するテーマをかかげ、島原市中心街の街道筋の町なみと町家の調査を実施した。この調査は、島原の歴史的な町なみと町家について新たな価値を見いだすささやかな探検でもある。この小さな調査研究の成果がこれからの島原のまちづくりに活用されることを期待している。








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