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Seminar 10月のセミナーから
10月8日,千代田区公会堂におきまして,新老人の会設立1周年記念講演会を開催いたしました。そのプログラムの中から,映画監督の羽田澄子先生と日野原先生の対談をご紹介いたします。
いのちを謳う
平塚らいてうに見る生き方の追求
 
日野原「今日は平塚らいてうを例にとりながら,生き方ということを考えたいと思います。らいてうという人は,随分先のことを予見して,女性にまだ参政権もなく,結婚も人と人というより,家を継ぐといった風習が残っている時代に,人間として女性がどういう存在であるべきかをはっきり実証し,行動した人です。羽田先生は「平塚らいてうの生涯」という映画を撮りあげたばかりです。」
 
羽田「この映画は,平塚らいてうの会の方たちが,資料をビデオに残したいと望まれたのを,岩波ホールの高野悦子さんが映画にすることを提案して,私に依頼してきたのもです。この映画では,私は生身の彼女を感じてもらえることを狙いました。それはある度成功したのではないかと思います。」
日野原「らいてうというと「原始女性は太陽であった……。」ということばが有名です。」
 
羽田「それは女性だけの文芸誌「青鞜」の発刊の辞で書いたものです。このことばがどうして出たかということは,彼女自身もあまりふれていません。らいてうの心にひらめいたことばとされています。当時彼女だけが特別に抑圧された環境にいたわけではないのですが,いろんな意味で抑圧感を感じていたようです。またそれとは別に,彼女は人はどう生きるべきかという非常に根幹的な哲学的な疑問をもっていて,その解答を求めようという気持ちが強かったのです。この辺が面白いところなのですが,多くの女性解放運動や労働運動というのは,社会的な視野をもって出発することが多いわけです。しかしらいてうの場合は,当初はほとんど社会的な目をもちあわせていません。まったく自分,個としての自分がいかに生きるかということがまず出発点になっているのです。そして彼女自身の個の解放に何が一番役に立ったかというと,禅の修行なのです。その禅によって開けた境地から出発しているのです。一般的には,個の解放ということは,戦後になってやっと考えられてきました。ところがらいてうは,その流れとまったく逆のところからはじまって,だんだん社会に目を向けていくようになるのです。戦後になってからは,戦争という体験がベースになって平和運動に大変熱心になっていきます。これはらいてうが心酔していたスウェーデンのヘレン・ケイがいった言葉ですが「婦人運動は平和運動をもって完結する」という言葉があります。この言葉をらいてうもとても大事にしていました。彼女は死ぬまで平和運動に大変熱心に参加していました。彼女が亡くなったというのは, 1972年ですから,まだ東西の冷戦が対立していた時代で,安保闘争が終わって間もない頃ですから,今とは随分情勢が違っていました。その後ソ連は崩壊しましたし,今はまさに同時多発テロ,今日の朝の新聞を見ましたら,アフガンヘの攻撃が始まったという世界の動きがあるわけです。けれどもまったく時代背景は変わっても,何が大切かというと,平和がいかに大事であるかを今朝ここにくるまでに思っていました。らいてうが最後に目指したのは,世界平和ということでした。」
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らいてうは平和運動に熱心で…   治療ができないと医師はお手上げで…
 
日野原「戦後ダレスに提案書を出されましたね。
 
羽田「ああそうです。ダレス国務省顧問に対しての。1950年に講和条約が結ばれるとき,東西両陣営の対立の中で結ぶ講和条約は社会主義国とも,アメリカとも一緒に結ぶ全面講話条約であらねばならないというのが彼女の発想でした。どちらかに荷担するとどちらかに引きこまれて,日本がまた戦争の道を歩むかもしれないと懸念したのです。結局世の申そういうふうにはすすみませんで,単独講和条約ということになるのですが。そういう風潮の中で気をもんで,ダレスが単独講和条約促進のために日本に来たとき,6人の当時日本の代表的な女性運動の人たちを訪ねて,署名をとってメッセージを発表したのです。それが彼女の戦後の平和運動の最初の行動でした。」
 
日野原「ノーベル賞をとられた湯川秀樹先生とも一緒に行動されました。」
 
羽田「ええ。それとは別に,湯川秀樹先生とか植村環さんとかいう方が集まられた世界平和アピール7人委員会のメンバーになって,世界の動きが今危ないというときに,メッセージを発表するというような運動にも参加されていました。」
 
日野原「湯川先生も物理学者としてだけではなく,最後には平和運動のことを考える急先鋒となって一緒に協力をされたというようなことをうかがうと,らいてうという人がいかに今の時代にもつながっているかということが感じられます。ところで,羽田先生が映画監督として非常に注目されたのは, 1986年に「痴呆性老人の世界」をドキュメンタリー映画として発表された時でした。その時以来,痴呆や老いや死とかいった問題が,社会の表に現れてくるようになりました。こういうケアの問題を社会へ打ち出してきたのは,患者のそばにいる医者ではなく,文学者なんです。このことを私は医者でありながらも不思議に思います。」
 
羽田「そうですね。「慌惚の人」を有吉佐和子さんが書かれたのが最初ではないでしょうか。」
 
日野原「あの「慌惚の人」を書かれたときは,まだ痴呆の研究,対応は医師の世界ではされていませんでした。つまり,ケアをする人たちのつらさ,問題点をこれは大変なことだと社会的に認識させたのは文学者なのです。それをまたいち早く映画化されました。」
 
羽田「岩波映画で痴呆老人の介護という医学の学術映画をとりたいという企画があり,私はその仕事を担当して,びっくりしました。年をとってからこういう痴呆になるという問題があるということに。それで岩波映画に学術映画でなくて,一般公開できる映画をぜひつくりたいと再提案しまして,これが受け入れられたのです。この映画は,ある病院で撮っているのですが,その院長先生が,痴呆という病気は治らないけれども,介護の仕方によっては症状が軽減できると考えられて,そのことを実践している病院だったのです。これが日本中に広まったら随分皆助かるなと思っていました。ところが,この映画をみたある医師が「これはどこの病院ですか。医師は何もやっていないじゃないですか」といわれたのです。つまり,医師が何かするということは,ケアではないんです。注射をするような医療行為なんです。」
 
日野原「これまでの医学の最終目的は,治すということだったのです。何も治療行為ができない状態になると,医師はお手上げなのです。」
 
羽田「実は私も身内をがんで亡くしました。その時,もうだめだと分かったら医師は患者をほったらかすんです。どんなに苦しんでいてもモルヒネが身体に悪いからといって注射してくれないのです。なぜ死んでいく人に身体に悪いからということがいえるのでしょうか。やさしく死なせてあげるということをぜんぜん考えてくださらないんです。」
 
日野原「パレという400年も前の外科医が「時に癒すが,和めることはしばしばできる。だが,病む人に慰めを与えることはいつでもできる」という言葉を遺しています。医師はいつでもできる病む人の心を支えることを断念し,症状コントロールもほどほどにして,めったに治すことのできない医療行為に執着して全精力をそそいでいるんです。」
 
羽田「本当に。」
 
日野原「パレはだから医者はおごるなかれといっているのです。そんな400年以上も前の言葉が,なかなか実現されない。ちょうどらいてうが100年前に平和を切望されたのがいまだに実現されないように。」
 
羽田「う一ん。けれども,いかに楽に死なせるかというのは,やはり医学の領分だと思うのです。」日野原「そうですね。医学は向かうべきゴールを修正しなくてはならない。そして医師だけではなくてすべての医療関係者がチームを組んで対応できるようにならなければならないと思います。
 
 今日は平塚らいてうの話をきっかけに,いろんなことを楽しくお聞きすることができました。」








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