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LPクリニクだより
生活習慣改善奮闘記
その10 「金の切れ目が煙の切れ目」
佐藤 和久(73歳)
 
 お恥ずかしいことですが,お金がなくてタバコをやめるしかなかったのです。戦争中軍隊で覚え,家に戻ってからは配給のタバコを吸うようになりました。当時は誰もが少ない配給で苦労をしていましたが,私は両親の分と姉の分を合わせて,一人で4人分という恵まれたタバコ人生を送っていました。ところが恐ろしいもので,たちまちそれでは足りなくなり,そのうちに,「ピース」続いて「コロナ」が発売になり,一日に80本以上は吸ってしまうヘビースモーカーに腕を上げることになります。
 ある晩のこと,部屋の外から「和久,お茶が入ったからここに置くよ」と言う母の声が聞こえました。「せっかくそこまで来たのだから中まで持ってきてくれればいいのに」と答えると,「だって,お前がどこにいるのか見えないんだよ,タバコの煙がいっぱいで」と母は言います。「それならそこに置いてくれれば取りにいくから」と,試験勉強のひと区切りついたところで,お盆に載せてあるお茶やお菓子を持って後ろを振り向いて驚きました。まさにこれでは私の姿は見えないのも無理はありません。机も椅子も何も見えず,煙の中に電球の丸い光がボーつと見えるだけではありませんか。「私はこんなところで一晩中過ごしているのか」と思うとぞっとしました。しかしそれでやめられるようなタバコではありません。配給だけでは足りなくなって,小遣いで「ピース」を買うようになっていました。
 ある日のこと教会で夜の集会を終え数人の友人と一緒に帰宅途中,東横線菊名駅近くまで来てハッと気付きました。「さっきの礼拝で献金をして持ち合わせがなくなってしまったのだ,どうしよう」。結局友人に嘘をつくことになりました。
 「教会に忘れ物をしてきたから先に帰ってくれ」と,教会に戻るようなふりをして別の道を自宅に向かいました。菊名から三ツ沢まで,どれくらい時間がかかったでしょうか。それでも,わずかながらポケットにあるものすべてを捧げた喜びから大声で讃美をしながら歩き出していました。歩くうちに疲れも出てまいります。当時写真屋のアルバイト代4000円はその大半が煙と化して,大切な献金も不足する体たらくを思い,自分がなんとも情けなく,家が近くなる頃には空腹と疲労で涙が出そうな気持ちでした。母親のあの晩の言葉,「お前がどこにいるのか見えないんだよ」。自分でも自分がどこにいるのかわからない今の姿に,俺はいったい何をしているのだろうと,部屋の中でただ一人祈りました。「今晩からタバコはやめよう!」。翌朝の一服も我慢しました。学友からのすすめも「体の調子が悪くて吸いたくない」と言って断り,一日を過ごし,二日目も無事に終えて,家にたどり着きました。初夏の夕暮れ,今日も一日タバコをくわえずに済んださわやかな気持ちを満喫していました。濡れ縁に立って外の空気を大きく一息吸いました。すると目の前がぐらぐらっと大きく揺れました。自分の体が自分でないというのか,その場に立ってはいられなくなりました。お分かりでしょう。私は無意識のうちに一本のタバコをくわえて夕方の空気を吸い込んでいたのでした。「しまった」。短くなったタバコをそこに叩きつけ,足で踏みつけ,「なんという情けない俺なんだ」と慙愧に胸を打つ思いでした。
 あれからもう半世紀ほどの歳月が流れています。








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