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新老人の生き方に学ぶ[8]
新しい人生への出発に際して
福久 かずえ
 
 私は大正15年中国大連に生まれ,青春時代を東北(旧満州)で過ごし,敗戦を迎えました。当時,旅順師範学校在学中でした。その年9月ソ連の進入と共に一家離散の憂き目に遭い,一人大連へ避難。友人の家に身を寄せましたが,結核性肋膜炎の再発で生活の拠り所を失い,路頭に迷っている時に助けてくれた命の恩人である中国人と結婚し,一男三女に恵まれ幸せな家庭を築きました。45年間ずっと「五星紅旗」の翻る中国で,医者として,日本語教師として,中日友好の架け橋を担う家族であることを願い,ただ一筋に生きてきました。
 私の人生の原点である白衣の天使から医の道に進み,卒業後,農村医療隊に参加し,二度農村に赴き,「5億農民の健康に奉仕せよ」という教えに,現地の農民と寝食を共にし,治療に励みました。多くの農民幹部は国境と人種的な偏見を越えて,私を迎え入れ,その寛大で尊い人間性に感動しました。
 私の生涯の中で忘れてはならない大事なことは, 1966年に起きた「文化大革命」の嵐の中で,7ヵ月にわたる軟禁生活を余儀なくされたことです。日本人であるが故に避けて通れない道であり,思いもよらぬ苛酷な試練を受けました。しかし人間とは不思議なもので,あまりに苦しめられると慣れてしまって,ある時は苦しみを一種の快楽と感じる場面もたくさんありました。しかし苦しく辛い涙のうらには,かけがえのない家族の信頼と愛の微笑を感じ,ほかでもなくそれは,真実を求め,真実に生きる姿であり,たとえわずかな時間でも苦い試練の中のお恵みと信じ,今では神様に感謝しています。
 その後1979年日中平和条約が結ばれ,両国の文化交流が年々深まる中,日本語教師に転職し,大連の外語学院で教鞭をとり,日本人教師としてのプライドと勇気を持って,日本人であることを一日も忘れたことはありませんでした。
 1987年定年退職後,子や孫たちの「日本で勉強したい」「母の祖国で暮らしたい」という強い要望に心が葛藤し苦しみました。自分の老後をみつめ,二世,三世の幸せと将来を思い,考えに考えた揚句の決断でした。まず夫の理解と同意を得て,1991年7月,夫婦で無事母国の土を踏み,第二の人生のスタートを切りました。帰国早々日本語を教えながら,4人の子等の家族を呼び寄せ,生活の基盤を作るかたわら,日本事情を学び,文化の壁を乗り越え,地域の国際交流活動に参加し,多くの友達に支えられました。やっと日本の生活にも慣れ,私たち夫婦もこれからという矢先,糖尿病の夫は肺炎で他界し,すでに4年になります。長年住みなれた中国を離れ,こよなく愛した日本を青山と選び,子や孫達の夢と希望を私に託して逝ったのでした。その時はじめて家族を想う愛情の深さに感動し,ただ泣き伏し生きているのが辛い私をいたわり,支え見守る家族の目線に応えるのは,ほかでもなく一日も早くもとの元気な私に戻ることでした。私は深い悲しみのどん底から立ち上がり,残留孤児の通訳の仕事に復帰し,同じ運命を辿った者同士が向き合って生きることの素晴らしさを確かめ合いました。戦後55年が経ち,今日を生きる幸せをかみしめながら,多くの犠牲者の陰にある平和の貴さを忘れることはできません。そして毎年8月15日が巡って来るたびに,あの時の惨劇が鮮明によみがえってきます。もう二度と戦争をしてはならない,戦争体験者として生ある限り永遠の平和と願いを語り継いでいきたい。
 今再び私の原点に戻り,中国で学び経験した宝物を日本の社会に活かし,皆様のお役に立つことができたらと,現在漢文の翻訳作業に精出しています。
 「新老人の会」の名の下に,日野原先生の心よりほとばしるお声に感応し,希望と喜びを与えてくださいましたことを心から感謝いたします。
 
 新老人の会では「語り継ごう戦争体験」を運動の1つの柱にしています。関心のある方はお問い合わせください。 TEL03-3265-1907








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