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戦争をいかに語り伝えるか
本間久雄(ほんまひさお 一九二一年生)
 
 一九二一年(大正十年)生れの私は物心がついた頃にはもう満州事変が始まり、上海事変へと中国全土へ戦乱が広がってゆく時代でした。そして徴兵。一九四二年(昭和十七年)からまるまる三年九ヶ月の間、潜水艦に乗組み西南太平洋、沖縄方面へ出動しましたが九死に一生を得て今日があります。百三十一隻の潜水艦、二十四隻の特殊潜航艇、百基の「回天」が失われました。この中には乗艦呂号四十一が沖縄で、僚艦呂号六十四が内海で教務中触雷沈没し、両艦とも艦長以下全員落命しました。
 この厳しい生死の境を生きて今日あることは、やはり奇跡です。従ってこの僥倖とも言うべき戦後の人生を如何に生くべきかは私にとって大きな課題となりました。私の心の片隅には戦没した仲間たちにたいする負い目があり、年を重ねる毎に大きく膨んでくるのです。彼らの無念と死の瞬間どんなことを考え、今日なお白骨のまま深海に迷い続けていることに思いを致すとき、胸が潰れる思いです。振り返って彼らの願いを、戦後の平和で自由の時代にどれだけできたであろうかと反問するのです。
 話が飛びますが一九九五年(平成七年)敗戦記念日を前に若い婦人記者(朝日新聞広島支局詰め)のインタビューを受けたことがあります。同記者は二十世紀の日本の政治、とりわけ戦争について鋭敏な意識をもっていました。その中で「あの戦争は本間さんにとって一体何だったのですか」と問われたとき、恥しい話ですが、咄嗟に言葉が詰り、彼女を得心させることが出来ませんでした。
 この一件は私の人生観と歴史観に鋭い問題を突きつけました。戦前学校で「靖国でまつられるような立派な人間になれ」と教えられ、あの戦争を聖戦と信じ、侵略戦争を反省することもなく、なし崩しに戦後民主主義に乗り換えてきました。この論理は必然的に国家の犯した犯罪―南京大虐殺、七三一部隊、従軍慰安婦―などを加害者の立場で告発することもできず、しかりとて被害者の立場で見ることもできない曖昧な民族となり、正しい歴史認識を欠く結果となりました。
 卑近な例をお話しましょう。一九三七年(昭和十二年)十二月十三日南京を占領、中国人民を大虐殺した翌日、当時何も知らされていない市民は提灯行列をして皇軍の大勝を祝賀しました。戦後その実体が明らかにされても、歴代市長も、市民団体もその誤りを公式に認め、中国政府と人民へ謝罪することもなく、世界へ向けて原爆の被害だけを声々に叫び続けてきました。これらのことが底流となって太平洋戦争を侵略と認めず、南京大虐殺は捏ち上げなどと放言して憚らない閣僚が跡を絶たず、「新しい歴史教科書をつくる会」など歴史修正主義が公然と跋扈するに到りました。二十一世紀を展望し、世界の孤児にならないため、冷静で合理的な視点で過去を凝視することが求められていると思います。
 このように考える時、いみじくも想いだされるのは「対中国プラント輸出について」と題する大原總一郎氏の一文です。
 「私の希うことは、感情的対立は、それが如何なるものであれ、その対立を緩和し、相互理解に到達し、更に最終的には人類としての愛情に転化せしめるための努力と方途によってのみ解決さるべきものであって、その感情を前提あるいは出発点として国の政策を樹て、それによって世界に挑戦することは間違ったことであると思う。―中略―。私には中国封じ込め政策を支持するアメリカ庶民の気持ちは十分理解は出来るけれども、感情を出発点とした政策の決定には私は賛同することはできない。―中略―。「汝等人にせられんと思うがごとく人にしかせよ」「恨みに報いるに徳を以てせよ」この言葉を引用して天文学的数字に上るであろう賠償の義務を問わなかった当時の蒋介石総統の態度は、私だけでなく多くの日本人の記憶に深く止まっている筈である。現在中国政府も同様の態度であると期待あるいは希望を持たれているが、その寛容な態度に対してわれわれは深く自らを恥じた。その事実の前にはわれわれは面をあげ得ない程であった。それをわれわれは忘れることはできない。」
 続いて―私の立場―を次のように述べています。
 「昭和二十年八月十五日、「大東亜戦争」は敗戦をもって終結した。私は戦時中の独裁的指導者からは縁の遠い存在ではあったが、戦争が与えた数々の残虐に対して責任を分つ義務からまぬがれようという気持はなかった。然るに戦後、戦争に積極的協力を惜しまなかった人達までが、極めて少数の戦争責任者達に戦争責任の一切を転嫁して、自らは恬然と戦後の繁栄の分け前にあずかることに躍気となるに至った。そして経済成長が目覚ましければ目覚ましいだけに一層かつての責任の回想よりも、現状の誇示と享楽に憂身をやつすことに我を忘れるようになった。そのことは私の心を暗くする。それがそうであればあるだけ、私は責任と義務とを一層重く感ぜずには居られない。われわれは過去の恨みを忘れようという人達に対して、かつての罪業を滅ぼすために何事かをしなければならないと感ずるのが当然ではないだろうか。私は少くともそうすべきだと思う。」
 末尾を次の言葉で結んでいる。
 「私には政経不可分という概念は妥当しないかも知れぬが、私も一定の思想は持っている心算である。―私は会社に対する責任と立場を重んずべきだと思うが、同時に私の思想にも忠実でありたいと思う、もし、以上に述べた私の思想が貿易に不利であるならば、私はまた別の考えをもつであろう。私は幾何かの利益のために私の思想を売る意志はもってはいない。」(「世界」一九六三年(昭和三十八年)九月号)。
 この論文の抜粋は、歴史的な安保闘争のあと、冷え切った日中関係を打開するため、政・財界になお強かった反共親台派の反対の中で、一人の資本家が毅然として信念を貫き、日中友好を打開した時の記録の一ぺージです。米国にも平伏せず、中国政府首脳の寛大さに自ら侵した罪の深さを恥じ、同輩の理非曲直を大胆に論じて、一歩も引かない思想と人格は、日本人の矜持を示したものです。このような敬仰すべき先人を得たことは、われわれの誇りとすべきことではないでしょうか。これは混迷する今日の情勢を切り開く指針とすべきものと思います。
 若い世代にわれわれはどのように答えるべきか。「ほんとうのことを教えてほしい」(朝日「声」。一九九九年九月十六日)と言う高校生戸倉理恵さん(尼崎市 十八歳)の「「反対など言えた時代か」という人がいるが、何故言えなかったの? ある日突然、発言出来ない時代になったの? 戦争の予兆はなかったの? それは何? 聞きたいことが山ほどある。どうか、もっともっと、本当のことを教えて下さい。私たちが同じ道をたどってしまわないように」。同じく高校生大橋里沙子さん(岡山市 十七歳)も「戦争の時代を伝えてほしい」(朝日「声」。二〇〇一年六月二十日)「今の社会は、私の目から見ても、甘えがはんらんしています。私は、戦争という一つの実例の中から、何か人間として忘れてはいけないものを見つめ直したいと思います」。
 これらの若者の鋭い感性と冒頭の婦人記者の問いかけは、戦争犯罪と責任を明らかにし、みずから考え、その責任を実践する努力を怠ってきた私にたいする告発の矢です。戦中派は白ら退路を断ち、われわれの時代が失った倫理性をとり戻し、戦争のもたらした真実を語り、歴史の真理に忠実に従うことであり、これこそが三百万余の日本の死者と二千万のアジアの死者たちへの真の償いになると思います。戦争を感情で語ってはならない。況んやイデオロギーにおいてをや。








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