日本財団 図書館


青春を犠牲にしての五年間
松尾 宗次(まつおむねつぐ 一九二〇年生)
 私の軍隊略歴
昭和十五年(一九四〇)七月 徴兵検査を受け「第一乙種」に合格。
昭和十五年十二月 広島県宇品港を出帆、北支塘沽に上陸、中国河北省長辛店(日中事変の勃発地である、「竜王廟」「蘆構橋」)近くの鉄道第六連隊に現役兵として入営。
昭和十六年十二月 南京の支那派遣軍総司令部特務教育隊江寧部隊に入隊。
昭和十七年 四月 北支那方面軍司令部順徳特務機関(後に順徳陸軍連絡部に改称)に配属。
昭和十七年 九月 現役満期、引き続き臨時召集、上記部隊に勤務。
昭和二十年 九月 敗戦により石門に集結、現地召集解除。北京に移動し居留民となる。
昭和二十年十二月 北京出発、塘沽出航、佐世保上陸、帰郷。
徴兵検査と入営
 当時の憲法では日本国民は兵役の義務が課せられていて、男子は二十歳になると徴兵検査を受けなければならなかった。村役場からの通知により、決められた日に兵事係の案内で三重県上野市に集まり、津連隊区司令部から徴兵官、軍医、下士官が来て検査が始められ、最後に徴兵官から判定を宣告されて終わる。
 私は「第一乙種合格」であった。平時は「甲種合格」のみが現役兵として入営するのであるが、当時は日中戦争が拡大の一途を辿っていた時であり、「第一乙種」も入営せなければならない情勢であり、後日、兵科と部隊、時期が通告され、上記のように入営することとなった。その地は戦地であり、出征兵士と同じように、氏神様で御祈祷を受け、多くの人の歓呼の声に見送られて故郷を後にした。
 当時の自分の心境は、幼少より全体主義、国家意識の強い、戦時体制下の教育を受け、戦争への参加は当然と思っており、生きて再びこの地を踏む事はないものとの覚悟であった。そうしてこの戦争は、当時の日本国の情勢としては、アメリカを始め諸国の経済封鎖や抑圧を撥ねのけ、限られた国土と資源の中で生き延びるためのやむを得ない手段であったとの認識でもあった。
 しかし後で聞いた話であるが、母は裏の座敷で一人で静かに見送っていたとか、表面ではお国のために召されて行くのを光栄であると言っているが、ここまで育んできた一人の男を戦場に送るのである。その心情はわかるし、世のどの母も同じであったと思う。
 そうして毎月、氏神さんを始め近くの神社五社を、「五社さん参り」と言ってお参りし、滋賀県の還木(もどりぎ)神社は、無事帰還するという事で皆が祈願に参拝したようであり、遠いところへ一日がかりで時々お参りしたと聞いた。こんなことは人にはいえないが、無事を祈る母の真からの気持ちであったのだと思う。
鉄道第六連隊での訓練
 兵営は新しく出来た煉瓦作りの建物で、内地の兵営と変わらない立派なものであった。ここで三ヶ月の厳しい初年兵教育を受けた。軍隊というのは一般社会では想像出来ない特殊な社会集団である。軍隊内務令の綱領に「兵営は軍の本義に基き死生苦楽を共にする軍人の家庭にして兵営生活の要は起居の間軍人精神を涵養し軍紀に慣熟せしめ強固なる団結を完成するにあり」と定められ、その教育の最小単位集団は内務班であり、下士官の班長と古兵十名、それに我々新兵二十名の編成であった。
 朝六時の起床点呼、八時から五時までが訓練、夜の八時点呼、九時の消灯就寝。この間に食事、洗濯、銃器衣服の手入れ、入浴等々目の回るような毎日である。そうして夜の点呼時に一日の反省がある。何かと問題がありこの時に体罰の制裁がある。個人的なこともあり、多くは共同の責任として全員ビンタの制裁を受ける。
 北支の寒さは厳しく零下十度になることもあり、この寒さの中での厳しい訓練と生活であった。特に鉄道隊は重量の機材を扱っての訓練であり(例えばレールは十メートルで三百キログラム、これを十人で持ち上げて運ぶ訓練、もしこれを落したら足は切断)こんな厳しい訓練にも若さと気力で良く耐えた。また学科の授業もあり、三月には一期の検閲を受け、学科試験と実技の成績で序列が決められ、これがすべての進級に関わった。
 この様な極限にも近い厳しさに耐えたことが、その後の人生の中での苦しさにも立ち向かう事が出来た精神的な支えとなったと思う。現在の世情を思うとき、青少年の若い時の教育と訓練の必要を思うや切である。
順徳陸軍連絡部での仕事を通して思うこと
 南京における江寧部隊で特別な教育を受け、特命の任務を受けてここに配属された。支那事変のあとの宣撫班等で行ってきた占領政策は一応収まり、汪兆銘政府が出来てからのその政府に対する行政、経済等の指導監督、情報収集等がこの機関の任務であった。
 我々の管轄は河北省順徳道で十五の県があった。あちらの県は日本の県より小さく、道全体で近畿地方ぐらいの大きさであった。身分は下士官であるが制服は国民服、時には中国服も着用、常に単身行動で拳銃を身につけるだけで時々危険な事もあった。
 仕事の一例―(私は経済班長であった)北支は雨量が少なく、農作物の栽培は水との戦いであった。水は地下水に頼り、そのための井戸の増設を行った。すべての施策は軍司令部と北京大使館の計画により、北京での会合、高級参謀や大使館の特権官僚の指示にはじまり、帰って計画を立て、各県に駐在する新民会の顧問会議で指示して実施に移る。そうして実施状況を県に行き監督する。弱冠二十二歳でありながら軍のバックがあったとしても良くやった。何事にも身を賭して、誇りと生き甲斐を感じての仕事であった。
 次の例―大東亜戦争となり我が方の戦況が不利になってきてからは、政策も一転し、軍需物資の集買が主な仕事となった。この地方は綿花の産地であり、この買収数量が指示され、各県の生産量を調査し、これに基き買収数量と日本の商社を各県別に決めて指示する。戦況が悪くなり、共産八路軍の妨害が強くなり、中々思う量の買収が出来ない情勢となり、その督促に県に行く事が多くなった。ある時トラックに綿花を満載し帰る途次共産軍と覚しき者からの襲撃を受けた。私は運転台にいてすぐ近くの銃弾の音を聞く。直ちに下りてこちらは少数の保安軍で対応した。幸いそれ以上の攻撃もなく収まって帰ることが出来た。以上はほんの一例であるがいろいろの苦労を体験した。
最後のむすび
 今になって大東亜戦争は侵略戦争であったと言われるが、当時の我々としては日本国の聖戦としての大きな流れの中で、勝利を確信し、死を賭して、青春のまっ只中の五年間を犠牲にして戦ってきた。しかし単なる犠牲ではない。この五年間は、自分がこれまで生きてきた八十一年間の中の五年ではない。我が人生の中の大きな大きな期間と体験であったように思う。
 当時の日本国民には私よりも更に更に大きな苦難と犠牲を払った人が多くあり、そうして数百万に近い人の死の上に今日の日本の繁栄がある事を、特に戦争を知らない国民に改めて思いをいたすようにしてほしい。日野原先生の「新老人の会」の目標「高い理想と質素な生活」を若き人に知らしめるべく努力することとして、拙い稿を終わる。








日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION