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4 戦中・戦後の様々な体験
痛恨の記憶
?橋 輝彦(たかはしてるひこ 一九二四年生)
航空母艦「雲鷹」雷撃される
 昭和十八年(一九四三)四月、広島県の大竹海兵団に入団した私は、昭和十八年八月十六日神奈川県横須賀軍港に停泊していた航空母艦「雲鷹」に乗艦を命ぜられた。こういう時に行われる乗艦舷門に整列挨拶の儀式後、所属分隊に配属された。配置は三連装一番機銃群であった。
 昭和十八年八月二十六日横須賀発〜トラック島他へ昭和十八年十二月二十九日迄数度出撃。捕虜の内地送還のため収容室の衛兵に当った時には、捕虜の体の大きさに多少の恐しさもあった。
 昭和十九年一月十四日横須賀港出航トラック島へ出撃。横須賀港を出て富士山が美しかった。此の様な風景の時は航海は必ずと言ってよい程海は荒れると聞かされていた。今回も美しく見えたので何となく不安な思いがよぎった。
 昭和十九年一月下旬、トラック島から横須賀港に向け航行中、サイパン島沖約四千米の海域に於て、午前十時五十分頃戦闘配置に就けのラッパが響きわたった。同時に右舷前部海面に四本の雷跡を発見。見張場所より飛行甲板を通り一番機銃へと走ったが、途中で第一番目の魚雷を受け、体が中に浮いた。残る雷跡を見て走る事が出来なかった。遂に二発は前部機関科兵員室に命中。残る二発は避ける事は出来たが、兵員室に居た非番の機関員二十二名全員が魚雷爆発で不幸にも戦死した。
 遺体は前甲板に引き上げられたが、同科の者の形相はすごく、仇は必ず取るぞと誓ったのだった。
 爆弾は居住区のため誘爆はなく沈没を免れたけれども被弾個所を修理せねば航行は不可能であり、緊急にサイパン湾内に仮泊した。工作艦「明石」をトラック島から緊急回航させて、横須賀軍港迄の航行に支障のない最低の仮修理をする事となり、水中溶接の設備を持っている「明石」により緊急修理が行われた。
 二十二体の遺体は枢に納められ舷門甲板に安置された。戦死者の衛兵として兵科より五名があたった。安置所の横には電話室があり、兵科の先任下士官が詰めていた。夜中、先任下士官は小便に行くのに驚かしてはいけないとの配慮からか「出るぞ」の声をかけたので、私達衛兵は其の場所を離れた。其の際の先任下士官の取った行動は御想像下さい。
 二十二の遺体をサイパン島で茶毘にふし、遺骨は白木の箱に納め、再び舷門甲板に安置された。箱は生木だったので乾燥してくると割目から遺骨がバラバラとこぼれる音がした。今だに涙があふれてくる。これも激烈な最前線の現実であり、内地で待ちわびておられる遺族の方々に思いを走らすと、断腸の念に堪えられず、悲しみの日夜であった。
 約四十時間に及んだ応急修理も完了し、新しい任務のため再び横須賀港に針路を向ける事となった。此の「雲鷹」が無事に敵潜水艦の待ち伏せている大海原を乗り切る事が出来るか誰一人として確信はなかったと思う。被弾個所には水圧と風圧が高く、約十ノット(時速十四キロ)前後の前進が精一杯で、実際は五ノット程度であったと思う。その内に十メートル前後の風速に遭遇した。サイパンを出航して三日余りたって、修理した個所が無残にも切断され、前甲板の三角形の前部は海中深く沈んでしまう事態が起きた。従って私の配置である一番機銃は共に海中に没してしまった。
 内心配置がなくなり心配していたが、後進で航行するので後部機銃群が一番機銃と定められた。
 もう自力での航行は不可能で、敵潜水艦の再攻撃が必ずある事を感じた。重巡「高雄」と駆逐艦三隻が救援に来た。「高雄」より数本のワイヤーロープで曳航される事となり、艦は動き始めた。そして敵潜水艦の来襲にそなえ、此処彼処に爆雷攻撃を行ってくれたので一安心出来た。
 曳航が一昼夜過ぎた頃から風が強くなり、重巡「高雄」は急に黒煙を出し走りだした。ワイヤーロープは切断され、不安がつのった。これは敵の潜水艦を発見したので「高雄」が自艦を守るためにした処置であった。
 通常三日間で帰港出来るのに実に十三日間を要し、昭和十九年二月八日に帰港する事が出来た。後進で航行するので波よけが悪く、後部機銃群デッキ迄波があがり、当直毎に戦闘服はずぶ濡れ、寒気にさらされ、苦闘の十三日間であった。帰港後直ちにドックに入渠した艦体の実に哀れ無残な姿を見、今更のように驚きを深くした。
復旧と出撃準備
 補修に約六ヶ月要する事となり戦友は他艦に転属していったが、私はなぜか艦に残ることになった。
 海軍工廠の方々の徹夜作業が連日続いた八月中旬になって公式運転も終り、出撃準備も開始され、兵員弾薬の補充相当数を約三日間で満載し、出撃命令を待つのみとなった。
 これから最前線に出撃する空母には護衛機は僅かに数機しか搭載出来ず、護衛の特設空母とはいえ、いつの間にか輸送船団に変貌していたのが偽らない現実であった。
慟哭の南支那海
 出撃の命令は時を経ずして発せられ、昭和十九年(一九四四)八月十五日横須賀港出港、途中母港の広島県呉軍港に再度搭載物充実のため入港した。さらに下関部崎に停泊、六ツ連島で船団集結を終え、昭和十九年八月二十三日昭南島(今のシンガポール)へ向け出陣。約十日有余に亘る連続航行中に二十数回に及ぶ緊急戦闘指令も下されたが、幸にも攻撃も戦闘もなく二千浬有余(約三千八百キロ)に及ぶ航海も無事終って、昭南島に晴の入港を果す事が出来た。時に昭和十九年九月十一日。始めて見る昭南島軍港は英国が誇った支那海随一の軍港だけに、其の雄大さに驚いた。当時は勿論日本の占領下にあって、我が聯合艦隊の有力なる南支那海唯一の前進基地になっていた。港内に我が有力な艦隊が停泊している事を信じていたが、重巡一隻(重巡「青葉」は座礁していた)、駆逐艦、海防艦数隻が停泊しているのみであることを知って茫然とした。
 搭載して来た物品を約一昼夜で陸揚げ作業。続いて、飲料水、ゴム、航空燃料等を満載した。昭和十九年九月十五日午后二時十五分抜錨、一路針路を北々東に向けた。出港後五時間程で、早くも対潜警報が発せられた。三十分程で海防艦が爆雷攻撃を加えた。
 十五日の夜、灯火管制は特に厳しく、煙草等一切禁止、海上は一面油を流した様な闇で平穏そのものであった。「雲鷹」は経済速力毎時十六ノット(時速約二五キロ)で、第一夜が不安のうちに経過し十六日の朝を迎えた。当直見張員は四時間で交替するが、それは艦橋下の上甲板整列で始める。時として遅刻する者があり、叱責罰せられる者もいた。時間厳守は絶対的なもので、遅刻は理由の如何を問わず一秒たりとも許されない。軍律の厳しさである。
雷撃との死闘
 私の当直中、数回警戒指令は出ていたが、さしたる戦もなく時刻は経過していった。夜間航行の場合は通常午後八時前後に夜食が支給される。その夜の夜食は「ぜんざい」であった。私はいやな予感が頭をかすめた。昭和十九年一月のサイパン島沖での夜食は「ぜんざい」であった。
 この「ぜんざい」は少量の小豆汁に、餅などとは比較にならない小さなうどん粉の団子が入っている。海軍の夜食は主として「うどん・かんぱん・雑炊」等が交互に支給される。しかし内地に思いを走らせて国民の食糧事情を思い、感謝であった。
 昭和十九年九月十七日午前〇時三十四分、「あづさ丸」に魚雷が命中し水柱が上った。総員戦闘配置についたが、再度魚雷を受け大火災が起る。午前〇時三十五分頃「雲鷹」右舷主機関室にも被雷。補助機械停止、使用不能となる。右舷の砲撃戦となり、艦内は一瞬にして暗黒となったが、すぐ応急灯に変った。近くの海上では海防艦などが爆雷を投下して、再攻撃される本艦を守ってくれた。しかし敵潜水艦は今頃は海中深く潜航して、我等をあざけり笑うかの様に時間の経過を待っているだろうと思うと、仇敵粉砕の敵愾心が全身に燃え広がって行くのをおぼえた。
 機関科の防災処置等が完全であったので、戦死者は数人であったものの、誠に止むを得ぬ事とは言いながら戦争の非情さをおぼえた。
 艦内は蒸気洩れで温度上昇し、下甲板中甲板からの戦闘員が次々と涼風を求めて飛行甲板に続々と集まって来た。疲労と空腹、且つ酷熱などの二重三重苦で、暗い夜空に光る星を眺めており、かすかに波浪高き暗黒の海面が見えるのみであった。決意はしていたが、出港後一昼夜足らずで、現実となると、実に儚ない運命であった。時は昭和十九年九月十七日午前二時三十分頃であった。
 暗黒の海面より救援を求める声がかすかに聞こえる。多分沈没した「あずさ丸」の乗組員か便乗者であろうか。しかし灯をつける事も許されず、救助は全て不可能で、唯夜が明ける迄頑張れと祈るしかなかった。今も当時を思うと新たな悲しみが湧き、涙を禁じ得ない。亡き戦友に安らかにと合掌するのみ。
 昭和十九年九月十七日午前四時五十分を過ぎた頃に、しらじらと水平線の彼方が明るくなって来た。暗黒の海原が嘘のように周囲が明るくなってきた。四時間有余に及ぶ死闘の中で生き残れたので、勇気百倍を得た。手すきの医務科員、機関科員も雷撃の見張につけの命令で警戒にあたった。悪天候下で高波が白く砕け幾度か雷跡と見間違った報告を耳にした。
最後の運命来る
 昭和十九年九月十七日午前七時四十五分頃、御真影を「カッター」に移せの命令が出たが、降し方がまずく、後部のロープが早すぎ、「カッター」は中吊の状態となり、苦笑したことはまだ心の余裕があったのだろう。
 午前七時四十八分頃後部応急作業打ち切り、総員上れが伝えられた。同年兵を飛行甲板にさそったが、彼は「軍艦旗下せ」の命が出ないのでと言い、残った(戦死者の名簿に記載がないので生き残り、又いずれかの艦で活躍していたのだろう)。
 午前七時五十二分頃、軍艦旗下せ総員退去が発令された。刻一刻と後甲板から海水が襲って来た。先に離艦した者が少しでも艦から遠く離れるべく泳いで行くの見ながら、一メートルでも遠くへ行けと心で祈った。早く飛びこんだ者の中には艦から落す木材等で傷ついた者もいた。飛行甲板も次第に海水で洗われ、傾斜は益々ひどくなり、倒れそうになる身体を舷側のハンドレールにつかまって支えていた。
 艦から離れる時には飛行甲板のどの位置からにしようかと思案している時、バシーと大音響が起り、同時に突然後部リフトが水圧のため開いたのが見えた。私は咄嗟に飛行甲板中央は危険と考え、飛行甲板の端をすべって離艦する事とした。海中に何メートル沈んだか判らぬが必死にもがいていた。しかし海底へ行っているのか海面に行っているのか判らず、しばらく動く事を止めた。幸に海面に浮上する事が出来、「私は助かったのだ」と喜んだ。
 浮上して附近を見ると、助かった戦友達が双手を挙げて互に励ましている姿が時折り波間に散見されて、嬉しさがこみあげて来た。海面にはどす黒い重油が浮き流れていた。
 先の湾岸戦争のニュースに、鳥がうつろな目で体中重油にまみれた光景があったが、それを見た時、重油の海に投げ出されてただよっていた当時の自分の姿とだぶって、何とも言い様のない心境になったものである。
 「雲鷹」の姿は影も形もなく、附近の海面には大小さまざまな渦巻が起きており、沈没した艦からのゴミ類が散乱し流れて行くのは、ただ無情そのものであった。しかし未だ救助艦は見えず、勿論陸地などは見る事も出来ず、あたり一面寂寞そのものであった。
 若い士官は勇気を鼓舞するため軍歌を歌い、力付けしていたが、私は無駄な体力を使うな、唯浮いている事に努める様に伝えていた。「雲鷹」は午前七時五十五分頃に南支那海に姿を消した。プラス島南東北緯十九度十八分東経百十六度三十三分の地点であった。
自然の脅威と気力の戦い
 海上には第三の危険がすぐに迫って来ていた。果しない大海原の中では所詮泳ぎにも限度があり、大群のサメやフカ等がいるではないか。大波浪に呑まれるのか、或いは敵の再攻撃で倒されるか、体力にも限界があり、残るのは気力の継続如何となった。
 海面には溺死体が累々と潮に流されて行くのが見える。私はなお生きる事に必死の努力と気力をふりしぼっていた。それに敵愾心にも燃えていた。まず生きる事であり、何か浮力のある物を確保する事だった。幸い大きな浮流物が見つかったが、既に何名かの先客があったので別の浮流物を探した。
 海面はあい変らず重油の流れで異臭が漂い、呼吸も困難で、次第に気力も体力も失なっていく様であった。今は唯々救助を待つのみであった。果しない大海原の波まかせで浮いていると、黒い艦影が見えて次第に近づいて来た。正しく我が海防艦二隻が救助に来てくれたのである。私達は実に蘇生の思いで喜こびに湧いた。
 救助作業が始まったが、やはり大きな波浪では困難な救助作業であり、加えていつ敵機の来襲があるかも知れず、危険が一杯であった。救助の方法も色々とあり、元気な者は泳いで救助艦の傍まで行き、投げられたロープにつかまる。だが、たどりつきながら舷側に打たれ、命を落す者もいた。
 私は救助艦より出された竿の先につけられたロープの先端の棒切れにっかまり、救助された。これを「鰹の一本釣」という。救助艦の甲板には既に重軽傷者が通路まではみ出し、全く動きが取れない状況であった。なぜか左足下部が手まりの様に腫れて、一歩も歩行出来ない自分が負傷しているのに気がついた。時に午前十時五十五分頃であった。顔一面が重油で真黒で誰なのか判断もつかない。救助艦二隻は一斉に台湾高雄に向け針路を取った様だ。「救助完了十二時三十分頃」。左足の甲はしびれで感覚はなくなっていた。
 助けられた安心感も出たのか、いつ高雄港に入港したのかも知らなかった。気付いたのは高雄海軍病院の大部屋で十七日午後十一時二十分頃を過ぎていた。苦しみながら息絶えていった戦友との別れが切なかった。左足にギブスをはめられたが、傷口にウジ虫が発生するのにはまいった。治療を受けながら或日突然に「歩行出来る者は内地へ帰す」の命令が出た。無念であったが、同年兵が介添えして二十メートル以上歩行出来る者は可能と認めるとの情報が入り、同年兵に助けられ内地送還となった。
 既にバシー海峡は危険で、陸路高雄〜台中〜基隆と決り、病院を後にした(戦後何十年ぶりかで、訪ずれた高雄駅は、今だにその時のままだった)。列車は台中で動かなくなった。情報は高雄海軍病院が攻撃されたということだった。これが台湾沖開戦の始まりと聞いた。
 一応無事基隆港停泊の船に乗ったが、此の船も来襲を受け損傷した。かろうじて千人洞窟に避難したが、その後基隆小学校に移った。暑い台湾とは言いながらもコンクリート上で一枚の毛布では体が冷え、数人が死んでいった。それからの経緯は、基隆港出港〜佐世保海軍病院〜別府海軍病院〜亀川海軍病院〜呉海兵団限定配置〜呉工廠〜佐伯防備隊〜敗戦除隊である。
あとがき
 戦争の残酷さと非情さの自己体験から、人間は人間の生命の尊厳さを自覚して生き抜かねばならないと切実に思います。私は海軍生活の中で色々な事を学ぶ事がありましたが、特に戦死された長谷川一作氏の娘純子への手紙に感動しました。純子様より見せていただいたおり、涙々で通読が出来ませんでした。純子様の了解を得て青少年の集いに「親子の絆」「親の配慮」としてこの手紙の話をしました。子供達も感動しておりました。又私の業界で「安全な保安」と題して話す事も度々あり、冒頭に「海軍の三ツの精神“五分前の精神““宜候の精神““出船の精神“」から始め、本題の話を進める事にしていました。
 一つしかない命を捨ててはいけない、と今も叫び続けたい。しかし最後の一瞬はすべて神がお決めになるのだと信じる。生きておりながら無意味な日々を送っている人でありたくない。死んだけれども人々の心の中に鮮烈に生き続けている人、そんな人になりたいものです。
 五十数年の時の流れは、如何にそれが真実であっても、表現するには不十分であると痛感します。心の昂ぶりから来る話の中で不可解の個所も多くある事は、何卒ご判読願いたく存じます。尚本文中昭南島出航後沈没に至る年月日時刻は、南支那海戦闘詳報「雲鷹機密第二号の二及三」を参考として記載しています。








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