日本財団 図書館


愛児を抱いて貨車の下に
 ―引き揚げ者の辛苦―
高梨 豊(たかなしとよ 一九一七年生)
 
 戦争たけなわの頃、夫は南満州鉄道株式会社の鉄?列車区に在籍、鉄?市の社宅に住み、二児をもうけ、私達は平和な日々を過していた。
 一九四五年(昭和二十年)初夏、突如、男は現地に留まり、女子供は集団疎開、行先不明との軍の通達を受ける。二児を連れてどこへ? 不安な思いの中、遂に八月十五日出発と決定。
 私は長男を胸にくくり、背にリュック、長女の手を引き、夫に見送られ駅へと向う。すでに列車は用意され、人々は父に夫に送られ集まってくる。いざ乗ろうとした時、至急男は駅舎に集まるようにとの伝令―。やがて帰ってくる男性の中に拳を握り泣いている者もいる。夫は緊張した顔で、もういいから家に帰ろうと言った。そして終戦の詔勅の事を話してくれた。終戦と言う重みなど分らない。唯、今帰宅できることが何としても嬉しい。私は長女に帰れるのよと手を握りしめた。今迄の心細さはどこへやら、足どりも軽く我が家へ向う。我が家の戸を開け、ああ帰ってきたと思わず出る一言。長男に乳房を含ませながら片手で畳を撫でてみる。確かに我が家に座っている。この日の嬉しさと畳の感触を決して忘れない。
 戦争は終った。でもこれからどうなるのだろう。改めて不安な思い。さまざまな流言蜚語憶測の中、今後襲撃されることもあろうと、各戸の窓のすべてに厚い板が、外が見える程度のすき間をあけて打ちつけられた。
 そんなある日、騒々しい外の気配を見れば、満人達が食料や衣料など色々なものを持てるだけ持ち、祭り道の如くゾロゾロ続く。社宅のはるか向うに関東軍の貯蔵庫が幾棟もあり、ここからの略奪である。誰も咎める者はいない。この頃近くの公園で、逆上した日本兵が満人を殺し、池へ投げ込んでしまう。又日頃日本人に酷使されていた満人が、この時とばかり主人を襲い、怪我をさせたとか、敗戦故のやりきれぬ日々。
 このような時まず進駐してきたのはソ連軍である。ある朝妙な声高に窓板のすき間から外をのぞくと、ソ連兵の三人が我が家の畠から茄子をもぎとり、かぢりながら立ち去った。初めて見た進駐軍である。
 夫の勤務はどうなるかと思ったが、進駐軍の管理下、従前どうり輸送にたずさわることとなる。ソ連兵の彼等はどこかまわず突然社宅に土足で上り、物品を要求する。特に時計が人気のようで、夫も乗車中「トケイトケイ」と言われ、腕から外し差し出すと、その兵士の腕には既に三個の時計がつけられていた由。婦女暴行、略奪等の数々の情報が流され、もういつ何が起るか分らない私は、子供を片時も離さず、就寝する時は背負い紐を片手に縛り、靴を履いたまま幾夜過したことか。
 ある朝Oさんがとび込んできた。今Mさんがソ連兵に殺されたとのこと、驚きで声もでない。M宅はいつも子供達の賑やかな声のする我が家から三軒先で、機関区にお勤めの人である。聞けばソ連兵が突然入ってきて奥さんを所望した。Mさんは貴方達の輸送にたずさわる者と身振り手振りで話し、その証しとして乗務鞄を見せ断わったところ、即座に銃殺されたとのこと。しかし訴える術もない。
 初秋に入った頃、肩章も帯剣もはずし、軍服のみの日本兵が有蓋貨車にびっしり乗り、連日北へ北へと向っていた。停車すると降りる者はトイレか、銃剣の番兵がついてゆく。車中の兵は呆然と会話もなく外を眺めている。私は何とも言えぬ悲しさをおぼえた。行先はソ連。捕虜となった人達だったのだ。
 突然夜のしじまを破ってお母さん助けてと女性の声。外は闇、分らない。誰だろう、ただ足音と悲痛な声が遠のいていった。翌朝分ったことは、向い側のKさんの一人娘がソ連兵に連れ去られたとのこと。老いた両親は娘の消息が分からぬまま私達と引き揚げたが、あれから幾星霜、親子の再会はあったのか無かったのか。
 夫は出勤で留守、夕闇の頃、「これから満人達が社宅目がけて攻めてくる。至急駅舎へ避難するように」との連絡。早速長男を背に長女の手を引き非常用のリュックを片手に外へ出た。通らねばならぬ十字路に銃剣を持った兵が立っている。射つかも知れぬ、どうしょう、怖いと思ったが、この道しかない。どうともなれと長女の手をしっかり握り、リュックをズルズル音をさせながら走った。誰彼であろう、わけの分からぬ大声を尻目に。駅舎には既に多くの人が集まり皆緊張して言葉もない。
 やがて一人の男性が入ってきて白兵戦になるかも知れぬ、そのつもりでと言って出て行った。どうしようもない。夫は居らず、二人の児は私の腕で膝で眠っている。寝もやらず何時間位たったであろう。夜が白々と明ける頃、交渉の結果攻撃は阻止されたとのこと。皆に安堵の笑みが走るこの頃、夫が乗務を終えて見えた。その瞬間私は言葉もなく泣いた、唯々泣いた。
 ソ連軍撤退。代って八路軍の進駐である。八路軍は悪辣なことはなく、日々おだやかであった。そんなある日子供を連れて大通りへ出てみた。もう以前の賑わいは無い。その時ガラガラ音をたてて大八車が走ってきた。見ると車の両脇に青龍刀をかざした兵二人ずつ、車を引く所には兵三人、車上には黒い満人服を着たやせ型の蒼白となった青年が、角材を背に荒縄でグルグル巻かれて座っている。仮装した日本兵と思えた。
 恐ろしさにあわてて物陰から見ていると、向い側の原に降ろされたと思う間もなく銃声と共にバッタリ前のめりに倒れた。そして空となった車と共に兵達は走り去った。原では見ていた数人の満人が今殺された青年を木の下へ引きずり寄せ、衣服を剥いでいる。日本兵だったのか。――この青年を待つ親が故里があろうに。
 夫が思いもかけぬ話を聞いてきた。それは日本人の子供達が奉天春日町で売物となって立たされているとのこと。信じられぬが事実であった。又人伝てに聞けば、北の方では引揚げ列車に我先と乗り、気がつけば我が子を置きざりにしてしまった親もあったとか。
 八路軍去って今度は国府軍。治安は安定して落着いた日々。年号もいつか変わり一九四六年となる。引揚げが本格化してくる。引揚げは一般市民が先、満鉄関係は最後と聞く。引揚げに際し持参出来るものは一人につき金二千円、衣類三点そして少々の生活必需品。六月引揚げとなり、これらを点検のため訪れた国府軍は無言で土足で上り、すべての家具調度衣装品に紙が貼られた。これらは没収品として各自、車を調達し倉庫に納めなくてはならなかった。
 引揚げの日は、朝から満人達が右往左往している。これは引揚げ後の家を我が物にしようと出発を待っているのである。見廻せばまだまだある品々。でももう未練はない。夫は大きなリュックを背に両手荷物。私は長男を胸に、背にリュック。長女は絵本入りの小さなリュックで私と手をつなぎ家を出る。すると家族らしい数人の満人がサッと我が家に入った。私達は振り返りさようならと我が家に深々と頭を下げる。
 駅前に集合、班別となり無蓋貨車に乗る。照りつける太陽も何のその、日本に帰れるのだ。しかしこの貨車、簡単に前進しない。金を要求するため皆で金を出し合い前進を促すのである。幾日か走ったある夜、停車となる。この地の者が男児を求めてきたのだ。私の児は男児、どうしようと思う間もなく二・三輌先に二人の男が懐中電燈をかざして探しているのが無蓋車ゆえよく見える。私はとっさに長男を抱え貨車からとび下り、貨車の下へもぐった。男児を探している間、貨車は動くまい。泣かないでとパッチリ目をあけてる長男の背を必死で撫でた。頭上をわけの分らぬ言葉が通りすぎた時、もう大丈夫と思い貨車の下から抜け出たものの、そのままヘナヘナと座りこんでしまった。
 この事件の結末は知らない。いよいよ葫蘆島より引揚船に乗るのである。おびただしい人波に押され乗船、僅かの場所を得る。連日海又海、食餌は朝夕僅かの粥と塩汁。皆空腹をかかえ、中には殺気立って飯よこせと直接談判する者もいる。乗船中親しいFさんの三歳の女児が栄養失調で死亡した。その夜白布に包まれ、父の手から月光の海中に投げ込まれた。同じ児を持つ私に慰めの言葉は見つからなかった。
 いよいよ博多上陸。引揚げ開始より一ヶ月有余、ああ日本に着いたと感慨にひたる間もなく頭からDDTを浴びせられた。そしてDDTにまみれた手に配られたたった一つのお握り。
 その美味しさよ。
 千葉県柏町に引揚げる。
あとがき
 地理的に南部で、満鉄と言う組織の中にあり、引揚げの日まで我が家におり、親子揃って引揚げられたことは誠に幸いであった。しかし、地域により、特に北部では終戦と同時にソ連軍の進攻、又地域住民の襲撃など無政府状態のなか、多数の邦人は今迄の人生を捨て、難民となって一路祖国への道を急いだものの、その間の飢え、恐怖、死別、一家離散等々、筆舌につくしがたい苦難の数々であったという。先に記した奉天の児童売出しも又、うなずける。引揚げ船求めて葫蘆島までたどりついても、道中の過酷さから体力消耗で、引揚げ船を目前にして息絶えた人もあったと聞く。又引揚げの機会を得ずして残留した邦人の多さ。孤児の問題とて今尚解決していない。
 戦争は風化しようとしている。今一度五十余年前を思い、戦争と言う不幸を考えたい。








日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION