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海が燃える
 ―十四歳でみた地獄―
井上 園子(いのうえそのこ 一九三一年生)
 
 昭和二十年(一九四五)七月十六日の「平塚大空襲」は、グアム島を飛び立った米軍B29爆撃機百三十二機による大規模な攻撃だった。一夜での投弾数としては全国一、二を争う数といわれている。神奈川県の平塚市が空爆を受けたのは、暗号名「コロネット」作戦と呼ばれる関東上陸作戦の布石の地であったからである。その作戦は、相模湾から上陸、相模川を北上侵攻して八王子より東京占領を計るというものであった。十六日夜半より十七日未明のたった一時間四十分の間に、四十四万七千七百十六本の焼夷弾が投下された。ちなみに平塚市民一人あたり八・三本で、八王子は一人あたり八・六本である。この恐怖の夜を十四歳で体験したわけである。
 平塚市民はごく最近まで空襲の目標は海軍火薬廠の存在であると思っていたが、特攻機「桜花」、米軍側でのニックネーム「バカ機」の生産に関与した工場があった為である。その頃、米軍がもっとも手こずったのは、航空機による、特別攻撃隊の攻撃(爆弾をつけたまま艦船に体当りする戦法)であったという。
 その夜、いつものように枕元に防空頭巾と非常用袋を置いて、着衣のまま寝ていた。警戒警報の発令で母に起こされ、庭の隅の防空壕に入ろうとした時、突如不思議な光で真昼の明るさになった。青白い異様な明るさ。表現の仕様のない光、あえていうなら巨大な蛍の光だろうか。オペラ《ドン・ジョヴァンニ》の地獄落ちの演出に使ったらこれ以上効果的な恐ろしい光はないだろう。まさにその光は地獄の幕開けであった。
 父が屋根一面に広がった火を見ながら「逃げよう」という声で、両親、小学生の弟、私(兄は東京の家にいて不在)の家族四人固まるようになって門を出た。通りにでると囲碁の木谷九段の家の屋根も火に包まれ始めていた。大勢の人達が我が家の西方にある松林に向かって走っていく。私たちも木綿わたの入った防空頭巾を爆風で飛ばされないように手で押さえ、頭上からの轟音と焼夷弾を避けながら火の中を走った。松林の近くにまで来た時、女の人が肩に焼夷弾を受け「ぐわっ」という声を発しながら倒れた。その時父は人々の流れに逆行して「海岸へ逃げろ」と指示した。
 米軍の空爆作戦は東京大空襲いらい都市の周囲を火で包み、市民を焼き殺す戦法に変わった。平塚市の南側は相模湾、西は茅ヶ崎市を挟んで相模川、東は大磯町とのあいだに金目川という地形である。海上から攻撃してきたB29爆撃機は南から一斉に焼夷弾を投下した。当時父は近衛連隊の予備役の将校でもあった故か、敵機の作戦を読んだらしい。敵機の飛行と逆の方面に逃げれば爆撃から逃れられるというわけである。
 人々の流れに逆らってやっと海岸へ逃げた。そこでの眼前に広がる光景は燃えている海と砂浜であった。海が燃えている景色を実際に見たことのある人はどのくらいいるだろうか。私たちが浜辺に呆然と立ちすくんだ時、数人の人がいたような気はするが、あまりにも遠くまで燃えている海に圧倒され、他人の事を思いやる余裕はなかった。茅ヶ崎と大磯に挟まれた平塚の海が沖あいまで炎に埋めつくされていたのだ。燃えているのは、波間をゆらゆら浮かぶ座布団ぐらいの無数の油脂の塊だったのである。浜辺も燃えていた。そして町中を攻撃している爆撃機の爆音さえ遠くに聞こえるほどの静けさに気づいた。人々の悲鳴もなく海は静かに燃えている。親子四人突如、時空を超えた世界に放りだされたように無言で立ちすくんでいた。
 浜辺に沿って植えられている防風松林の中を父に先導されて大磯に逃げようと金目川まで歩く。しかし橋を渡るにはあまりにも危険な状態であった。無防備に橋を渡ろうとすれば機銃掃射の標的である。物陰に隠れながら川に沿って北上し始めた時、母の鼻先に鉄の棒のようなものが飛んできた。足もとをみると線路の一部であった。母があと三十センチ先を歩いていたら即死であった。
 
 軍に取って、一般市民は殺戮の対象でしかない。戦争の犠牲になる子供達はこの「恐怖」から一生癒されない。その夜、眼前で悶え苦しみ死に行く人の凄まじさに、無感覚にならなければ、狂っていただろう。燃えさかる町を遠くから眺めていた級友達と、炎の中で地獄を体験した違いは、説明しがたい暗い一本の太い柱となって、私の心に突き刺さる。この心の内を誰にも悟られたくないという思いの裏返しが、十四歳の居直りであった。
 「天皇の終戦詔勅」で、あらゆる価値観が逆転した時、十四歳五カ月。もはや子供でもなく、さりとて成人の域にも達していない、いうなれば醗酵途中のパンのような状態である。私のまだ子供の部分では、灯火管制の解除で迎えた、文字通りの明るい夜をただ無邪気に喜んでいた。そして親達が戦いに破れた占領下の恐怖に怯えているのを、人ごとのように眺めていた。敗戦の打撃でふ抜け状態になった日本国民の目に飛びこんでくる英語は「OFF LIMITS」。駅の構内の一部を始め町中のいたる所が「OFF LIMITS」となる。犬は入れても日本人は立ち入り禁止、「現地人と犬は立ち入り禁止」であったと言われる上海租界の公園を思い描く。その上輸出品には、「MADE IN OCCUPIED JAPAN」と印刷しなければならない屈辱感を味わう。振り返って見ると、この敗戦を何歳で迎えたかがその後の人生に大きな影響を与えたのではないかと思う。
 
 学徒勤労動員による上級生不在の学校に、彼女達が動員先の工場から戻り、授業は再開された。私たちの学年は、教室を改造したいわゆる学校工場で軍の下請けや、日本刀の鞘や柄作りの職人仕事に携わっていたのである。十三〜十四歳で労働を強いられ勉学を奪われたあの時期に、基礎的な事を学べなかった影響は今に至るまで尾をひくことになる。しかし、私にとってはさほど悪い事ばかりでもなかった。全国民が飢えに苦しむ時代では、教える側も今夜口にするものをどう手に入れるかが先行し、生徒達の成績にヒステリックな目を剥くことはなかった。数学の先生などは、授業中に冷蔵庫はおろか氷も手に入らぬ夏期に、食物を腐敗させぬ方法など色々教えてくださった。数学より切実な問題だったのである。正にサバイバル必勝法である。現今の受験何とか必勝法とは異なり、お陰でその後世界中どこへ出掛けても困らない。
 
 この年代の大きな特徴の一つは爆発するエネルギー、いいかえれば飽くことのない好奇心にあると思う。ある学問に興味を持ち、それが授業のカリキュラムと一致すれば、学生時代は快適なものとなろう。私の興味はその時間割りにないものであった。ヘルマン・ヘッセに夢中になり、彼の世界にどっぷりと漬かりこんだ。ヘッセの侵しがたい精神世界へ侵入してくる。興味のない科目は、私にとって押し売り訪問さながらの迷惑な存在でしかない。当然のことながら、期末に渡される成績表は目を覆うばかりの惨憺たる有り様であった。一人勝手な己の世界に満足している子供に取って、この成績表に書かれた優劣の評価など、単なる紙切れと弾き飛ばしてしまう。まさに恐ろしいばかりの居直りである。ふてぶてしく居直らねば、一体誰が助けてくれただろう。
 戦時中に入学したミッション・スクールは次第に軍事色に包まれ、退役軍人が教壇に立つようになっていた。それが敗戦でアッというまに変身する技に生徒は戸惑う。学校側ばかりでなく子供達を囲む全てが無条件に骨抜きになった。昨日まで米英打倒を叫んでいたその時代に、あまりにも素早く戦勝国の意向に迎合する学校側に強い不信感をもってしまう。爆撃による痛手が、十四歳の子供にとってどんなに重く耐え切れないものであっても、今の日本の子供達のように、事が起こる度にカウンセラーなる結構な職業の人が面倒をみてくれるわけでもなかった。
 平和にもどった教室で勉強に没頭しようとしても、あの狂気の夜から私を解き放ってくれる手立ては何もない。ただ、ひたすら「ヘルマン・ヘッセの文学」の中に心の安らぎをもとめていったのである。このような生徒だったのに、何故か一言の注意を受ける事もなく「幾度か深い眼差し」を背後に感じる事があったのは不思議であった。やり場のない私の気持は、静謐な風景の中で徐々にいやされていった。
 
 そして「PEACE TREATY」という言葉をやっと聞けたのは、敗戦から七年たった一九五二年(昭和二七年)四月二十八日である。講和条約が締結され占領下から解放されたのである。私にとっては四月二十八日が、一年のどの祝日よりも祝う気持ちになれる日なのである。十代の多感な時期に、連合軍によって母国が占領されたという屈辱を味わった日々の故である。もし日本国にとってこれ以上にめでたい日があるのなら教えてほしい。「OFF LIMITS」「MADE IN OCCUPIED JAPAN」「PEACE TREATY」この三つの英語は、空爆、学徒勤労動員の記憶と共に私の昭和二十年代の象徴である。








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