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2 空襲・艦砲射撃
グラマン戦闘機に狙われた私
福田 幸子(ふくださちこ 一九二五年生)
 
一、 お前を撃つぞ
 昭和二十八年(一九五三)ごろ封切られた映画「禁じられた遊び」の冒頭部分をご存じだろうか。
 橋の上で主人公の両親が、俯せになって機銃掃射を浴びるシーンである。それが私の封印し消し去りたい思いを呼びさましたのだ。
 映画館の中にいるのも忘れ、思わず「伏せては駄目」と叫んでしまった。そのまま座り続けていたかどうかも定かではない。頭の中は戦闘機急降下のキーンという金属音が鳴り響いているだけだ。
 多分あれは昭和二十年(一九四五)五月中旬、東京の渋谷区代官山のつとめ先から帰宅途中のことだったと思う。山手線の渋谷駅をすぎたあたりで、突如の空襲警報に電車を降ろされた。ばらばらと乗客達が左右に散るなかで、動作のおそい私は皆におくれて外に出ると既にグラマン戦闘機が一機、頭上にあった。伏せることも、身をかくすこともならず、側溝の中に立ち、土どめのコンクリートの壁を背に頭をあげた私は、直接グラマンと対峙するはめになった。
 機銃弾がパンパンと舗装道路にはねかえる。私の足先から二十センチばかりのところに一直線の弾痕を残し、立ち去るかとみるまに反転、キーンと急降下してくる。低空でくる相手にまともに目を合わせてしまう。
 夕陽をうけ金髪ふりみだし、真っ赤な顔で大きな口をあけて何か叫んでいる。今も目に灼きついている光る髪、赤い顔「鬼畜米英」そのものと思った。
 逃げまどえば蟻をつぶすように追い回すというし、伏せれば標的面が大きく弾にあたる確率が高い。周囲の人達がどうなったか確認する余裕などなかった。私は壁を背に直立していて、撃ちにくい姿勢の上、顔が合ったこともむきにさせた原因か、私一人を「お前を撃つぞ」と再三狙ってきたのだ。
 身近に爆ぜる弾、えぐられたアスファルトの破片がばしばしと体にあたる。真向いに三回も反転してくる。
 完全に飛び去ったと思っても体が硬直したまま動けない。どうやって家に帰ったのか、その前後のことは今もってすっかり欠落している。
 そのあと爆弾も焼夷弾も経験しているが、この機銃をうけた恐怖には及ばない。
 耳の底に残る急降下時のキーンという高い音、反転して急上昇するときのキュウーンという音。
 映画の中で、伏せた両親二人に二列真っ直ぐの弾が貫通するなど絵空ごとだと解っていても、機銃掃射とあの音に、思い出したくもない記憶がまざまざと蘇ったのだ。
 その後長い間、「禁じられた遊び」のテーマソングを耳にするたびに、身体が硬直し、息苦しくなるのだった。
二、焼夷弾を浴びる
 昭和二十年五月二十五日夜半、被災した知人を見舞い十時すぎに帰宅した私は、炒り大豆三十粒の夕食をとっていた。当時はなによりおいしいと思った炒り大豆はつい食べすぎるので、一回三十粒ときめていた。灯火管制下のひざの前を大きな蜘蛛が横ぎった。
 警戒警報もなしにいきなり空襲警報が鳴りだしたので、電灯を消し庭に出て見あげると、B29爆撃機一機を目にする。その太い胴体から爆弾一つ落ちたとみるまに、三、四十個の焼夷弾に分離してパラパラと散ってくる。一本三十センチぐらいの長さの弾があちこちで火を吹く。手の届くかぎりは何本か水をかけて消すことができたが、そのうち母が「もう駄目、二階が燃えている」と叫んで、早く表へという。足許の火は消せても屋根の上までは気がつかなかった。
 軒も火を吹いていて、家を回ることもできない。踏石から縁にあがろうとしても、昨日まで磨いていた縁側に“土足では“とためらっていると、なかから「何をしている」とばかり母に引っ張りこまれる。座敷をぬけ玄関から門をでて、ぐいぐい手を引かれるまま、左側の炎の中に入ってゆく。そのときチラッと子供を背負ったお隣りの人が右の橋のほうへゆくのをみかける。
 火事風というのか、凄まじい火焔が渦になって吹きつけ、いろんなものが舞いあがる。防空頭巾の頭を前へ傾け、まだ火を吹いているものを踏みつけ、炎の中を走って、やっと広い道にでる。一応平らなその真ん中を駅に向かう。ホームの下、北側に二人並んでうずくまるが、東中野駅も南側から燃えてきて、ホームの上を火が走る。頭の上を飛び越して木製のベンチや待合室あたりの燃えかすや、火の粉が目の前の線路に飛び散るのを、呆然とながめているばかり。
 どのくらいそうしていたか、気がつくとそれまで母にしっかりと片手を握られていた。
 空がほの明るくなったころ、家の方へと歩きだした。途中まだ燃えている家もあったが手助けする気にもなれない。知人にゆきあい「どうしたの、その顔」といわれ「何?」とばかり顔を撫でたところ、手にべっとりと血がつき、防空頭巾からでていた前髪、眉毛まつ毛とポロポロ黒い玉になって落ちる。火の中に向かっていったとき顔の表面の毛が燃えたのだ。火焔に舞あがる焼けトタンなどが顔にあたってあちこち傷をうけたのだろうが、痛いとも思わなかった。はたちの女の子の顔のありさまである。
 途中見渡すと、神田上水の方まで建っているものはなにもない。小滝橋のソース工場の煙突が随分近くに見えた。「やっぱりね、残っているとは思わなかったけれど」母は気弱に呟いた。いつ入れたのか母のもんぺの懐にはお位牌と過去帳がねじ込んであった。私はといえばセルロイド製の洗面器一つ手にしていただけだ。ブリキのバケツで火に水をかけるのは私には重すぎてセルロイドを使っていたのだが、縁がひしゃげているものの、よく火がつかなかったものだと人に言われた。
 火の上を走ったため運動靴のゴム底がとけてしまったので、焼けトタンの切れはしを拾って、これまた焼けた針金で靴の上から足にしばりつける。ガチャンコ・ガチャンコと歩くのだが、火の入った針金はすぐ切れて困った。
 借家を含め四軒建っていた百坪あまりの敷地は、なんにもないとこんなにも狭かったのかと思った。井戸の外枠だけが残っていた。
 なぜあのとき母は、風上の火の中に入っていったのだろう。風下に逃げた人達の多くは火に追いつかれて橋の上で黒こげになったときく。その話をきいたとき、お隣の人がどうなったか尋ねようとしたが、こわくてとても口にできなかった。
 何日かのち、近くの塔ノ山公園に黒いかたまりの山がいくつか、積みあげられていて、その周囲からは何本も手や足とおぼしきものが突きでているのを、目にしている。
 そのときのわが家は、地方に知人もなく家財は何一つ疎開していなかった。七年前には結核で父を失っており、上の弟は少年飛行兵として知覧の特攻基地に、下の弟は勤労動員中で、母と二人きりの夜のことであった。私は前年に大病をわずらい、病みあがりの身で母にとっては足手まといの娘だったのだ。








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