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1 敗戦
降伏文書を受けとる
 −英語で終わった軍隊生活−
 藤原 剛(ふじわらたけし一九二一年生)
 
 奇妙な幕切れだった。昭和十七年(一九四二)二月一日に陸軍に現役入営し、二十一年(一九四六)六月二十四日、米兵に頭からDDT(農薬)を振り掛けられながら、和歌山県田辺に上陸、復員するまでの四年五ヶ月。私の野戦生活は敵と直接戦闘する事なく、連合軍(主として英、豪軍)との敗戦交渉で幕をとじた。
 敗戦後間もなく、「貴様は大阪外語卒だから連合軍との交渉に当たれ」との命令で、所属していた歩兵四十二連隊(山口)の機関銃小隊長から第五師団司令部(広島、ケイ諸島に駐留中)へ転属、二十人ほどの終戦処理班のキャップを命じられ、交渉をさせられた。なおケイ諸島とは、ニューギニアとチモール島との間、アラフラ海にある小さな島々である。「鬼畜米英」と称して戦ってきた敵との交渉。命令が出ても、必死に断わったが、師団長代理(師団長は割腹自殺していた)の野砲五連隊長・N大佐に説得されてシブシブ引き受けた。N大佐は陸士出身とは思えないほど、心豊かな人で、いまも心から尊敬している。同時に私はいまもアメリカ人には心を許していない。日本人が敗戦後、手のヒラを返すように、総理大臣から一国民まで、「アメリカさまさま」になったのが納得できない。
 敗戦の年、九月はじめ、英海軍のフリゲート艦(輸送船護送用の高速艦、八千トン)で、降伏文書を受取ったのが最初の仕事だった。E君という二世の憲兵隊の通訳とともに艦のタラップをあがると、入口の衛兵が「軍刀を外せ」と取上げた。ピストルを出すと、手マネで「付けておけ」と合図した。よほど軍刀が怖かったのだろう。E君はのちに、B級戦犯容疑で濠州へ連行された後、消息を知らない。人の良い紳士だった。いまも胸が痛む。
 軍艦では英、豪士官二十人くらいか、当番の水兵の運んでくる紅茶を飲みながら、コの字型に座った士官食堂の真ん中に私とE君が立たされ、なかの一人が二百ページもの英語の降伏文書を頭から読み始めた。終わるまで二時間はかかった。内容はすべて分かったが、私は「英語は全く知らないような顔をする」との打ち合わせ通り、E君に一区切りづつ説明してもらった。
 降伏文書の書き出しは「大日本帝国天皇ヒロヒトは連合軍に降伏した。大日本帝国陸、海、空軍(注・日本には独立した空軍はなかった)はヒロヒトの命令によって、武装解除せねばならない」とあった。「やつら、うまい表現を使っている。天皇の命令では混乱は起きない」。なぜか直感的に思った。事実、敗戦処理はどこでも総て平穏に終わった。
 「武装解除、兵器処理、戦争犯罪処理が終わったら、全員が日本へ帰国できる」と文書は結んであった。読み終わって、艦長が上目づかいに、ニヤッと笑い、「ライト?」(分かったか)といったのが印象的だった。
 二十通ほどのコピーとともに降伏文書を受け取って翻訳し、原文のコピーを付けて、各部隊へ師団長命令を出し終わるまで、三、四日はかかった。日本軍だったら、恐らく原文だけで、コピーはつけないだろう。ここにも彼らの合理性が感じられた。
 武装解除に当たっては、軍刀と性能の良かった眼鏡類は総て一カ所に集積、英軍がさっさと持ちかえった。他の兵器類は「一ヶ月で深さ約八千メートルのケイ海溝に捨てよ」との指示だった。
 投棄をはじめると、あるわ、あるわ格納したままのゼロ戦、魚雷や爆弾類、要塞砲をはじめ大小さまざまな火砲、機関銃や小銃、中、軽戦車、鉄帽やガスマスク、船舶工兵隊の上陸用舟艇約三十隻を昼夜動員して二ヶ月かかった。貧乏国、日本が軍部に引っ張られて、侵略戦争のために、いかに無茶苦茶な無駄遣いをしたかがわかる。
 戦犯処理にも苦労した。戦犯なんて、第一、聞いた事もない。降伏文書を持ち帰って、師団長の前で検討したが、だれも分からなかった。翌日、豪州軍の連絡将校(少佐)に真意をきくと、「国際法で戦時捕虜は丁重に扱い、終戦時には所属国へ無事に返さねばならない。日本軍は捕虜を虐待し、殺している」と説明してくれた。なるほど、「戦陣訓」(昭和十六年)で、「捕虜となるよりも、死を選べ」との教育を受けた私たちには、全く初耳だったが、「合理的であり、当然な考えである」と、納得させられた。師団長も「日露戦争や第一次大戦では日本軍も捕虜を大切に処遇した」と感慨深そうに了解した。イギリス軍の将校は戦時国際法の捕虜条項の抜粋を胸のポケットにいれているとも、説明された。
 やがて戦犯リストがわたされた。リストは不完全で例えば、ナカムラはほとんど、ナキムラと発音されていた。また敗戦間近に五師団はジャワ防衛のために、夜闇にまぎれて、小型船舶で軍を移動させていた最中でもあり、部隊編成もバラバラで、指名された人々の大部分は不明だった。その上、豪軍はひと月ぐらいで、交替。引継ぎが悪く、完全なチェックがなかった事も幸いして、ほとんど戦犯は出さなかった。ただ憲兵関係者や原住民を監禁したり、婦女暴行をした人は原住民の訴えもあり、C級戦犯として、豪州の軍事法廷へ送られた。一万余人のなかで、せいぜい二、三十人ぐらいだった。
 そんな中で、職業軍人のK中佐(大隊長)は、部下のM中尉(私と同期)が大隊の情報将校をやっていて、原住民を取調べた事もあったという経歴から、「貴様、連合軍に自首して大隊を代表して戦犯になれ」としつこく責め立てた、Mはたまらず、私のところへ相談にきた。「助けたい」と早速、師田長に相談した。師団長は「部下を庇うのが上官だ。Kは上官の風上にもおけない奴だ」と怒り、即座にMを海軍部隊に転属させ、早い復員船で送り帰した。Mはいまも元気だ。
 昭和二十一年(一九四六)六月二十四日、総ての処理を終えて、ケイ島からは最後の復員船(リバーティ船)で師団長とともに、田辺に上陸した。
 復員後、アメリカの文化人類学者、ルース・ベネディクト(一八八七−一九四八)の「菊と刀」という、日本人を文化人類学的に分析した論文を読んだ。彼女は「日本人はアメリカが国をあげて戦った敵の中で、もっとも気心の知れない敵だった」と冒頭で述べている。彼女は一九四四年六月、米軍がサイパンに上陸したころ、対日戦後処理スタッフとして、学会から対日占領政策立案に参画。日本は「恩」と「義理」での社会であり、ピラミッド社会の頂点に天皇がいると分析、連合国で優勢だった「天皇制廃止論」に反対した。降伏文書冒頭の「天皇の命令で武装解除せよ」との表現は、まさにベネディクトの分析どおりといえよう。








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