日本財団 図書館


I 精神疾患の身体症状
 精神疾患といっても,精神病院と総合病院や精神科クリニックではその対象が違います。精神病院は精神分裂病を中心としていますし,総合病院では,神経症,うつ病などの外来もしくは入院が中心です。また,痴呆などの高齢者医療も精神科の中にくくられています。このように問題は非常に多彩ですから,どこかに焦点を当てるというのではなく,精神病院や総合病院の精神科に入院している患者さんを視野におきながら,具体的な症状を中心にお話をしていきます。
1. 一般的な特徴
 精神疾患をもつ患者さんが身体的な問題を生じたときの特徴がいくつかあります。
1)身体的な症状を訴えることが少ない
 精神分裂病やうつ病で抑制症状が強い人は,かなり重篤な身体疾患があっても,自分から身体症状を訴えないことがよくあります。薬の副作用による重い肝疾患や,胃潰瘍の出血でヘマトクリットがほとんど測れず赤血球数が100万以下という貧血でも,本人はケロッとしていることがあります。
 それは,精神症状が優位だと身体症状を自分から訴えないという問題もありますし,抗精神薬を多量に飲んでいると痛覚などの知覚がかなり低下している場合もあります。
 うつ病では,身体症状を多彩に訴える心気的なタイプがあります。それとは逆に抑制症状のために何をするのも億劫だ,考えるのも面倒くさいという場合には,身体的な訴えがどうしても減ります。またうつ病では,抑制だけでなく,意欲面の低下も強い場合に,食事をとらない食欲減退が必発して,それに伴う身体的な問題,脱水,その他もろもろの身体的問題が生じてきます。
 うつ病で最も重い型はコタール症候群です。コタールというのは精神科医の名前です。一時期は文明が進むにつれてほとんどみられなくなったといわれていましたが,高齢者が増えるにつれてかなり多くみられます。コタール症候群は,特異な心気妄想,たとえば胃と腸が切れていて,何を食べても吸収されないとか,血管がみんな潰れてしまっているから点滴をしても無駄だというように,途方もない内容の心気妄想と,巨大観念といって,自分は死ぬに死ねない体だという不死妄想や未来永劫にわたってこの苦しみを背負っていかなければならない存在だというような観念に支配されています。
 この症状をもった最も重いうつ病の患者さんが精神科医の目に触れないのは,食事を何日間もとらないために,脱水になって肺炎を併発して死ぬか生きるかという状態になります。ですから,内科や一般病院に入っているほうが多いのです。生命的に重篤な状態で病院に運ばれてくるので,身体的な治療が優先します。しかし,治療をして身体的な所見がよくなっているのに,本人の状態は少しもよくならない。そこで治療スタッフがうつ病ではないかと気づくと精神科に回されてくる。その中に,非常に重いうつ病で,生きる意欲を失っている状態のコタール症候群が含まれています。そのうつ病を治さないと,身体的な状態も治りません。
 私が経験した8例のコタール症候群の患者さんのうち,治ったのは2例です。この2例のうちの1例はかなり強力な抗うつ剤の治療でようやく抜け出した時に転倒して脳出血を起こして死亡してしまいました。うつ病の専門家が,高齢者のうつ病には重篤な人はいないと言ったりしていますが,実はそうではないのです。本当に重い人は精神科には来ないのです。
 また,痴呆の人も自分の身体的な問題を的確に表現することができません。このように自分で訴えない,訴えられない患者さんに対する身体的なアセスメントは,ふだんの状態が変化したり,行動面に端的に出てきますから,日常的にその人の身体状況や生活行動をきちんと観察していることが大切です。いつもより活気がないとか,何かおかしな行動があるとか,反対にふだんの行動がみられないことも非常に重要なサインです。このような非特異的な変化から重大なサインをいち早く見抜く力を身につける必要があります。
 むろん,体温や血圧を測定する,排便の回数や性状,食事量の観察などは当たり前の日常的な健康管理であって,それは前提にした上ですが,日常的な生活行動を見てその人の特徴をとらえたり,常に身近なところで接していると,変化がいち早くチェックできます。そういう必要性を求められているのが精神疾患の特徴でもあります。
2)身体的な訴えが精神症状とみなされる
 身体症状を執拗に訴えると精神的に(あるいは性格に)問題ありとみなされることが生じます。この中には,実際の身体的な異常をもとにしている場合と,精神症状として身体症状を前面に押し出すタイプがあります。これらは精神科だけでなく,内科や外科,産婦人科の外来,そして在宅の患者さんの看護や介護でいちばん振り回される症状です。これをどうとらえるかは,現場にいる人の大きなテーマです。
 このことが整理されていないように思われます。俗にいう「神経のせい」と片づけられたり,その人がうつ病や精神分裂病と診断されていると,患者さんの訴えは(身体的訴えも)精神症状とくくられてしまう現状があります。そのために精神疾患の患者さんがきちんとした身体的な治療を受けられないことを私たちは数多くみているわけで,そのへんを念頭におきながら,少し話をしていきます。
 身体的な基盤なしに身体症状を訴えるというのは,アメリカやWHOの診断基準では,「身体表現性障害」と言います。その中でも非常に訴えが多いタイプを「身体化表現」と分類しています。これまで身体症状を身体的基盤なしで訴えるものを“心気的”あるいは“心気症”といってきました。しかし最近のアメリカやWHOの考えは,心気症を狭くとって,身体表現性障害の重症型,たとえば醜形妄想とか,自己臭体験,体感異常(セネストパティー)というような重症型を心気症と呼ぶようです。このあたりの言葉の使い分けに混乱がないようにということで触れましたが,一般的・習慣的には,精神症状として身体症状を訴える場合は,心気的訴えとか,心気症といっています。別名は多訴型または不定愁訴といって,あちらが悪いこちらが悪いとか,病気がないのにあそこが痛いとかここが痺れるとか,めまいがするといった身体症状を訴えるものです。
 
(1)自律神経症状について
 不定愁訴の中核は自律神経症状です。自律神経症状はさまざまな疾患で生じる疾患横断的な症状です。更年期障害でも自律神経症状が出る。神経症でもうつ病でも精神分裂病でも自律神経症状が出ます。このようなわけで,自律神経症状はきちんと認識する必要があります。
 
自律神経失調は限局性
 自律神経とは随意神経と対になっている名前です。随意神経系とは,話すとか,手を動かすとか,自分の意思による神経のことです。これに対して自律神経系は,自分の意思と関係なく身体的な調整をしているものです。たとえば呼吸,体温,脈拍などです。梅干しを見れば唾液が出てくる。ものを食べれば自動的に胃の蠕動運動が始まる。胃を意思で動かそうと思ってもできませんが,自律神経が自動的に機能を調節しているのです。暑ければ汗をかいて体温を放熱する,寒ければ鳥肌がたって外気を遮断する。ものを食べれば胃液が分泌される,食べてないときには胃液を出さない。このように常にプラスとマイナスの機能を調節しているのです。それが失調している状態を自律神経失調といっているのです。食べていないのに胃液が出たり,蠕動運動が始まると,ムカムカする,吐き気がする,暑くもないのに汗が出てくる。逆に,ものすごく冷える。身体的な病気と違って,自律神経失調の場合は必ず限局性です。熱感や冷感は体のある一部だけで,全身的ではないということです。その症状をみたら自律神経失調症だといってもいいほどです。
 自律神経は全身の身体機能のバランスを調整していますから,症状はあちらにもこちらにも出てきます。めまい,手足が痺れる,動悸がする,尿が近いというようにあっちもこっちも悪い。このような症状には身体疾患でみられる系統性がありません。胃潰瘍であれば,お腹が痛い,吐き気がする,食欲がないと,その臓器に伴う症状があるのですが,自律神経失調の場合は系統的でない。人によって,動悸とか過呼吸というひとつの症状だけが出ることもあり,痺れがある,めまいもする,動悸もあるというように,いろいろなところに症状が出る場合もあります。
 自律神経失調症は,疾患特異性ではないと銘記しておく必要があります。Aの症状が出たら更年期障害というわけではなく,さまざまな疾患でそのAという症状が出てくる。自律神経症状はその疾患の身体症状ということです。
 一般的に,自律神経症状は臓器疾患を基盤にしていないので,そのために身体疾患を生じたり,身体症状が悪化することはありません。ですから,その症状自体にあまり振り回されないほうがいい。自律神経症状としてとらえることができれば,めまいとか動悸などの症状がいくら出ても,それで心臓が悪くなるとか,それで転倒するということはありません。ただ訴えとしてあるというだけです。そういうように構えていたほうがいいということです。
 
まず不安を受け止める
 この症状を訴える患者さんは不安が強いのが普通です。これは神経症でも,うつ病や精神分裂病,あるいは更年期障害でも同様です。そしてこのような身体症状に不安が向いています。訴えに対するときに大事なのは,それに振り回されないことです。まずそれをしっかりと受け止める態度があると,患者さんはそれだけでだいぶ落ち着きます。ところが心電図をとりましょう,脳波もCTもということになると,患者さんは,いつまでたっても落ち着きません。このような対応は医療スタッフが不安だからです。重大な疾患を見逃したらどうしよう,死んだらどうしうようと自分の不安を解消するために,検査とか投薬などの対応に走りやすいのです。この症状の構造には,医療スタッフの側の不安も大きな要因となっています。医療スタッフが「この症状で死ぬことはない」「そのために悪くなることもない」と自分に言い聞かせてどっしりと構えている腰の据わった対応がいちばん適切なのです。
 ちょっと乱暴なことを言っているように思われるでしょうが,こういう症状を2年も3年も訴える患者さんの経験によるものです。患者さんとの関係ができている場合には,目の前でカルテを繰りながら,「1年前にもこう言っていますね,2年前にも言っていますよ。でも全然死なないね」とつぶやくと,患者さんが笑い出して自分の問題に気がつくことが珍しくありません。
 
訴えをじっくりと聞く
 また,心気症の患者さんは,こちらが黙って聞いていると,訴えがどんどん変わってくるのが特徴です。せいぜい「それから?」という問いかけ程度で,それ以上深くは聞かない。そうすると,また違うことを言い出したりします。黙って話を聞くというのは漫然とではなく,ストーリーがみえるまでは話の腰を折らないということです。
 ところが,患者さんが痛いとか,痺れるとか訴えるのに対して,こちら側が「いつから?」「ご飯食べたとき?」と,具体的に臓器疾患を念頭におきながら質問してしまうと,どんどん疾患が出来上がっていくのです。そうすると,もっと他にあるいろいろの症状が出てこないで,止まってしまうことになりやすいのです。
 ですから,黙ってきちんと相手の訴えをどこまでも聞いていく。そうすると,次々と訴えが変わっていくことがわかります。まず聞く,そして自律神経症状だということがわかれば,こちらの側が問題を整理していくスタンスがとれるのです。それが身体的訴えに出会ったときの最初の大事な対応です。なかには身体的な訴えから急に話題が現実の生活に変わることがあります。「姑がきつい人で」とか「事業がうまくいかなくて辛い」など。本音は後から出てくるものです。
 しばしば救急の外来に駆け込んでくる過換気症候群(過呼吸症候群)の大半も不安発作に伴う自律神経症状です。不安発作は今日では,パニック障害と呼ばれていますが,昔からある神経症の症状のひとつです。過呼吸では,空気をとり込みすぎて血中O2濃度が高くなります。脳の呼吸中枢は血中のCO2で調整していますから,O2濃度が高くなりCO2濃度が低くなれば,呼吸中枢は休息状態に入ってしまいます。そこで紙袋をかぶると自分の吐いた息をまた吸うので,CO2の濃度は上がっていきます。それで呼吸中枢は正常化します。
 過換気症候群というと呼吸に注目されがちですが,動悸や発汗なども伴っている不安発作です。神経症の不安にもいろいろの種類があります。その中でも最も強い不安発作は強烈な自律神経症状を伴う不安状態です。これは体験した人でないと表現しにくいような強烈な不安です。不安とは,何が不安なのかわからないから不安なのです。地の底に引きずり込まれるような恐怖と患者さんはよく表現しますが,それと死ぬのではないかと思う強烈な身体症状(過呼吸や動悸など)が出ます。過換気症候群ということに重きを置かれると,いつも紙袋を持っていて,不安発作になるとそれをかぶる。過呼吸に関してはそれでいいし,本人もそれで治ると暗示的に信じていますから,不安発作もそれで軽減する。それはそれでいいと思いますが,実際は不安発作に対する精神療法と薬物治療が大切です。神経症の不安発作の治療が紙袋ではお粗末で患者さんがちょっとかわいそうです。
 痛みに対しても自律神経症状と同じようなスタンスが必要になってきます。これはまた改めて触れたいと思います。
 心気症には,醜形恐怖,自己臭体験,体感異常(セネストパティー)などがあります。醜形恐怖(妄想)というのは,自分のお尻は大きいと気にしたり,自分の顔はおかしいと,実態とは違うことを気にする。二重瞼にして,またそれを直してみたりする。思春期に多い症状です。自分の体から臭いが出て,それで周りの人から変な目で見られていると思い込む自己臭体験も同じです。腋臭や便臭で周りの人に不快な思いをさせていると思い込む。この症状は対人関係を背景にする精神症状ですから実際はほとんど臭わないのですが,「臭いはしませんよ」と言っても,まったく意味がありません。これも体の異常ということで一般科にかかることがあります。
 体感異常というのは,ありえない身体感覚の異常を訴えることです。これは精神分裂病でもみられますし,高齢者では特殊な精神病でなくてもよくみかけます。どういう訴えかといいますと,唾液ではない液体が口から出てきて,それが気になって仕方がないといって,一日中ティッシュペーパーで口を拭っている。それは本人によると,「唾液とはまた違った黄色い苦い液体が出てくるのです」と濡れた証拠まで見せてくれます。
 それから,脳が溶けて,喉の後ろを流れているのがわかるとか,この薬を飲むと脳がぐっと動いて効いたのがわかるとか,そういう知覚はありえないのに,そういうことを大真面目に話す。また腸が捻転しておへそのところが絞られたように痛いと訴えて,実際にお腹の手術を受けた人もいます。これも体感異常(セネストパティー)です。なぜかというと,腸が動くという体感はないのです。胃が動くとか,腸が動くという知覚はないのです。それを感じると訴えるのは,体感異常だと考えなければいけません。
 
(2)解離性障害(いわゆるヒステリー)
 もうひとつの精神症状で身体的問題を前面に出してくるものは解離性障害です。かつてはヒステリーといわれましたが,あまりにも人口に膾炙しすぎていて不適切な誤解を与えるというので,今日では医学的には「解離性障害」という言葉を充てています。解離性障害には,解離型と転換型があります。
 解離型というのは,人格の解離した形をいいます。朦朧状態とか,遁走(フーグ)といって,東京の人が大阪駅の新幹線の改札口で切符を持たずに通ろうとして声をかけられて,「私はどうしてここにいるのでしょう」と言ったりする。その人は東京から大阪まで誰からも怪しまれずにきちんと行ける。このように朦朧状態は意識が非常に狭窄した状態で,個々の行動などはおかしくないので,あとになって全体の行動がおかしいと気づかれる。これはせん妄状態と違う点です。
 転換型は,身体症状を前面に出してきます。子どもの転換型では,片足を紐で縛って松葉杖で歩くというような,未熟な表現を示す場合もあります。また,よく見られるのは,知覚脱失で,靴下型(手袋型)の麻痺です。麻痺は末梢の知覚神経の走行に沿って出るはずなのに,そうではなく靴下とか手袋のような形だったら,これは転換症状とみなしていい。
 もともとヒステリーはシャルコーが分類したのですが,神経走行にふさわしくない神経症状を呈する患者に催眠術をかけてみると,心因を語り始めて症状が治るということから,心因性の疾患を発見したのです。ヒステリーを医学的に証明した最初の人です。彼はフロイトの先生でもあります。








日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION