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III うつ反応の心理的メカニズム
 先の「心理・社会的要因」の項目で,育ってきた家庭環境の影響について触れましたが,ここではそれについて心理学の代表的な学派の立場から詳しく述べたいと思います。
1.精神分析
 これはフロイトによって始められました。現在はフロイトのもともとの精神分析理論をそのままで実践している臨床家はほとんどいないと思いますが,彼の理論はあらゆる心理学の理論に何らかの形で土台となっています。この精神分析の影響を受けないものはないというほど大きな影響力を与えました。
 フロイトの精神分析に反対する人も,フロイトの理論に反論するという形で,違った理論を発展させています。まさにフロイトがいなければ,その人の理論も生まれなかったといっても過言ではありません。
 精神分析の立場からは,うつ病の原因を3つ考えることができます。
 
●対象喪失
 何が対象なのかといいますと,それは“子どもが愛する対象”だということです。その対象は親ですが,特に母親のことです。たとえば,最近問題になっている虐待では,親が子どもを虐待するならば,子どもは結果として愛する対象としての親を喪失してしまいます。暴力を振るう存在を愛することができるでしょうか。それは困難でしょう。虐待が社会問題化しています。おそらくこれからも増えていくと思われますが,これは将来のうつ病を発症する予備軍を家庭の中でつくり出しているということになります。つまり,子どものときに虐待されますと,愛する対象を失っていくようになり,うつ反応を起こしやすくなるのです。
 また,両親の離婚も同じことがいえます。離婚のプロセスにはたいへんな精神的葛藤があるのですが,そういうプロセスの中で,両親がエネルギーを使うと,子どもに愛情を注ぐことが困難となります。子どもの側から見ると,両親が離婚していくプロセスはまさにそれが対象喪失なのだということです。
 さらには,子どもが小さいときに親を亡くした場合もそうです。これは愛する対象そのものが物理的にいなくなるわけですから対象喪失になります。また,親が子どもを無視することも対象喪失になります。あるいは,親自身がうつ病などで,子どもと十分に関わることができなかったりすると,その子は対象喪失になりやすくなります。
 
●抑圧された怒り
 子どもが愛する親を喪失するのは,それが事実か想像かには関係がなく喪失するのです。親がどんなに子どもを愛していても,子どもから見て愛する対象としての親を喪失していると想像しているのであれば,それは実際に親を失っている場合とまったく同じ結果になるのです。親がどんなに子どもを愛していたとしても,子どもがそう感じられなかったというのであれば,それは対象喪失になるのです。親子間の問題を扱っているとこのことがよく分かります。成人した子どもが親に対して子どものときに言われた言葉や態度に傷つけられ,「自分は親に愛されていなかった」と感じていた長年の思いを伝えると,親は決まって「あなたを愛するがゆえだったのに」と言います。しかし子どもは愛されていないと感じるなら,それは対象喪失ということなのです。
 みなさんが友達や家族から拒絶されたらどうでしょうか。また,リストラされたらどんな感じを受けるでしょうか。最初に出てくる感情は“怒り”ではないでしょうか。しかし,怒りの対象も喪失してしまっていると,この怒りの感情はどこに向かうのでしょうか。それは自分自身に向かうのです。子どもですから,自分に向かってもどうしようもありません。ぐっと内側に向かい,怒りがあたかもないかのように抑えてしまうのです。ですから表面的には怒りはありませんが,この怒りは自分の内面に向かっています。このような子どもが大人になると,何かを喪失したとき,あるいはストレスのある状況に直面したとき,この怒りは自分自身に向けられ,表に出せないために,自分自身を責めるようになります。
 うつの状態のクライアントを扱っていると,自分を責めている背後にはこのメカニズムが働いていることがわかります。自分で自分を責めると,内面に罪悪感が生じてきます。それがうつ状態を引き起こします。ですから,どんなに“あなたの責任ではない”と強調しても,その自責の念を払拭することは不可能です。
 子どものときに対象喪失をして,その結果として怒りが生じ,それが自分の内面に向かっていくと,大人になったとき,何か大事なものを失うとか,ストレスにさらされて悩んだりすることがあると,自分は駄目なのだと自分を責めるようになり,それが罪悪感になってしまいます。自分を責めて,罪悪感にとらわれたら,当然うつ状態になるでしょう。
 
●自尊感情の喪失
 もうひとつの精神分析の立場に,「自我サイコロジスト」といわれる人たちがいます。前に述べたようなメカニズムで形成された“自己”というものは,理想の自分との間にギャップを感じるのです。そのようなギャップからは,自尊心とか,あるいは健全なセルフイメージは低下してしまいます。つまり,自分を尊重し,ありのままの姿で自らを受け入れていくということがむずかしくなってしまうのです。そうであれば,私たちは当然の結果として気分は落ち込んでくるのではないでしょうか。セルフイメージを測定するための心理テストをしますと,うつ状態の人はセルフイメージが低いことがわかります。
 うつの人たちは,自分に対する自信や確信がありませんし,怒りを抑えている人が多いのです。
2.認知療法
 「認知療法」というのを聞いたことがあるでしょうか。うつ病の治療には認知療法が効果があります
 先ほど,自尊感情を低下させると言いました。自尊感情を失ってしまうと,自分には価値があるという思いがもてないということを話しました。無価値感,絶望感,劣等感というものが内側から出てくると,その結果,否定的な認知の仕方が確立してしまうことになります。それも相当深い心の中,自分でも気づかないほどの深層に築かれるのです。そうすると,自分について,または自分を取り巻く村会,あるいは将来に対して,非常に否定的な見方をしてしまうことになります。
 みなさんは自分をどのように見ているでしょうか。自分に対してどんな見方をしているのか考えていただきたいのです。また,社会に対してはどのように見ているでしょうか。将来に対してはどうでしょうか。
 もしみなさんがこれらに対して否定的な見方をしているのであるならば,希望がもてず,落ち込みやすくなるのではないでしょうか。それが極端になれば,生きていく意欲さえ失ってしまうかもしれません。ですから,うつ病の人は自殺願望をもつようになるのです。
 もう少し普段の生活の状況で体験することで説明してみましょう。
 例えば,ケーキを半分食べて,残りの半分についてどういう見方をするでしょうか。ある人は,「まだ半分ある」と思うかもしれませんが,「もう半分しかない」と考える人もいるかもしれません。また,ボーナスが半分に減らされたらどう思いますか。また,30歳になったら,「もう30歳だ」と思うのと,「まだ30歳だ」というのとではずいぶんその認知の仕方が違うのではないでしょうか。40代からみれば60代は相当の高齢者に見えるかもしれませんが,80代から見れば60代はまだまだ若いと思うのではないでしょうか。80歳になるまでまだ20年もあるのですから。
 私が言いたいのは,「人間とは相対的な存在だ」ということです。つまり,人間は見方を変えれば,自分自身も,環境も,将来についても相当変わってくるということです。
 このような女性のクライアントに出会うことがあります。29歳から30歳になった途端に自分の価値や将来がもう無きに等しいと感じるほどに落ち込むのです。たった1歳,いや1日違いでその人の価値がそこまで変わるものでしょうか。それはその人の価値が変わったのではなく,認知の基準が変わっただけなのです。認知の仕方には,私たちの子どもの頃からの文化や親の見方が影響してきます。
 認知療法は,この否定的な見方を肯定的な見方に変えていくことでうつを改善するのです。
3.行動療法
 「行動療法」の見方は,認知療法と一緒に用いられます。つまり,自分の周りに起こる出来事を肯定的に解釈できるように行動を強化するのです。
 
●強化の法則
 例えば,講演会で講師の話に,講師が気づくようにうなずいたとしたらどうなると思いますか。おそらく,その講師はうなずいている人の方向を見ながら話すようになるでしょう。これがまさに「強化の法則」なのです。夕食がおいしかったら,「おいしかった」と言われたらどうでしょう。明日はもっと腕を振るおうと思うのではないでしょうか。
 これは子どもにも適応できます。子どもがいい点数をとると,親は喜んで子どもを誉めます。そうすると子どもはまた頑張ろうと思うでしょう。肯定的な行動をしたときには,それに対して誉めたり,喜んだりするのです。そうすると,その行動を強化することになります。その人の行動を変えるためには,強化の法則が効果的です。何かしてほしい行動をしてもらいたいときには,その行動に肯定的な報酬を与えるとその行動を引き出すことができるのです。
 しかし,子ども時代に批判されたり,完全を求められてこれでよいという扱いを受けなかった人たちは,どうしてもうつ状態になりやすいのです。一生懸命やってもあまり周りから肯定的な反応がこなかったら,またやろうという意欲は出てきません。
 私たち日本人は,この行動の強化がどちらかというと下手かもしれません。特に身近な家族間では何か親切にしてもらっても「ありがとう」とは言わないのではないでしょうか。あるいは,よい成績をとってももっともっとという思いがあって,なかなか満足してもらえません。これでは強化の法則が有効に働いているとは思えません。子ども時代にあまり誉められないで育ってきた人はうつになりやすいということです。
 
●学習した無力感
 子ども時代に自分ではコントロールできないトラウマ(心の傷)の体験があると,たとえ何をしたとしても自分の環境や状況は変えられないと考えるようになります。その典型的な例は,虐待やいじめなどですが,自動車事故などに遭ったりすることも心の傷になってしまいます。また,トラウマになるような大きな事件でなくても,何をしても変わらないような状態が継続するなら,自分の努力ではその状況や環境を変えることができないために無力感に陥ってしまうのです。どんなに努力しても,あるいは何をしてもだめだと思ったりすればそうなるでしょう。その状況や環境を変えるために何もできないのかというと,そういうわけではないのです。
 子ども時代は家族がすべてですから,外に助けを求めることなどはできません。そのため現在の状況がたとえ望ましい環境ではなくても,このような状況以外のことは考えることができません。このような人が大人になって何かストレスのある状況に遭遇したとします。その人はその状況を変える能力をもっていても,どうせだめなんだという無力感の思いが強く,その状況に甘んじてしまうのです。この無力感は何回も何回も体験によって学習したものですから,簡単には変えることができません。一時的にはなんとかなるという思いが生じることはありますが,結局は「あー,やっぱりだめだ」という感情に襲われ,そこで無力感を更に学習するのです。
 このような学習をしている人が,変えられない環境で生きていくと,うつ状態になるということです。うつにならなければ,変えられない現実に直面することになりますから,うつ状態になって困難な現実から逃避するのです。
4.社会心理学
 人間の本質は他と関わるということです。それは人間には他者の存在が不可欠であるということです。ですから,人間は自らのニーズを満たすためには他者に依存しなければならず,自分だけで自分のすべてのニーズを満たすことはできないのです。自分のニーズを満たすためには他者が必要なのです。私たちは,他者に依存するけれども,自立をするためには自らのニーズと他者のニーズのバランスをとることを学ばなければならないのです。
 自分のことだけを考えるのはもちろん成熟した人間とはいえませんし,また,他人のことだけを考えるのも決して誉められるものではありません。私たちが真の意味で自立していくためには,いかに適切に他と関わっていくかということです。自立とは,決して自分だけで生きることではないことはおわかりでしょうが,いかに関わるかが重要なのです。そのためにはさまざまな人々の集まり(グループ)に属する必要があります。そして,自分のさまざまなニーズを満たすとともに,他者のニーズを満たすためにも自分のできることをしてあげることです。しかし,グループに属していなかったり,あるいは属していてもそのグループのメンバーからサポートされていないとか,更には,他から自分が必要とされているという実感がもてないと,うつ状態になってしまうのです。
 ソーシャルネットワークというのは人々との関わりのネットワークのことですが,人々との親密なつながりをもたず,グループにも入っていないと,孤立してしまいます。そういう人はどうしてもうつ状態になりやすいのです。
 以前は家族も大勢いましたし,会社に入ると終身雇用でしたから,自然にそこで人間関係もでき,個人のニーズも満たされ,グループ的なサポートを得ることができたのですが,現代は少子・高齢化ですから,これまでとはずいぶん違う状況になってきました。
 就職するにしても,これからはいったん入った会社に一生勤めようとする人は少ないのではないでしょうか。終身雇用制が崩れつつあります。
 少子化も進んでいますから,40代の終わりから50代の始め頃には夫婦2人だけの生活になってしまうでしょう。片方が仕事で忙しいのであれば,他方はほとんどひとりきりの生活になるでしょう。近所同士の付き合いもあまりなく,コミュニティーのつながりも十分でないとすれば,積極的に自分から関わりを開拓していかなければ孤立してしまうでしょう。グループに属して,自分のニーズと他者のニーズを満たしていくような相互依存がないとうつ状態になるということです。
5.実存主義
 「何のために生きているのですか」と問われて,明確に答えられる人はごくわずかのようです。「家族のために」とか「仕事のために」と答えるかもしれません。確かに,これらのために生きるというのは尊いことですが,ここでは実存主義的な立場でいう究極的な生きる意義についてのことです。家族のためといっても,その家族も亡くなるときがきますし,また仕事も退職するときが必ず到来します。その人の全生涯にわたって貫かれている“生きる意義”についてどうかということです。“生きる意義”とか“生きる目的”を失うと,うつ状態になるということです。生きる意義,生きる目的というものがなければ,人間は他の動物と比べると,かわいそうな存在かもしれません。動物はお腹が満たされていれば満足でしょう。しかし,人間はすべてのものが満たされれば満たされるほど,生きる意義や目的がないと空しくなってしまうのです。あるいは,何のために生きているのかわからなくなるのです。
 
 主な心理学の代表的な学派によるうつについての理解を述べましたが,これらのすべてに共通しているのが“喪失”であることがわかっていただけたと思います。喪失がうつを引き起こしてしまうのです。








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