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II うつの病理
1.うつ状態は正常な反応か
 うつ反応をしない人は存在するでしょうか。例えば,忙しい日が長く続いた後の久しぶりの休日はおそらくは少し落ち込むのではないでしょうか。身体的にも精神的にも疲れが生じ,何もしたくないような気持ちになるかもしれません。このような状態は,周りの人から見ればうつ的といえるでしょう。しかし,この反応は正常なうつ反応といってよいものです。もし,疲れていても元気であるのであれば,休養をとるより更に活動し,エネルギーを消耗するかもしれません。これでは倒れてしまうまで働くことになるでしょう、これでは逆に病的といえるでしょう。
 うつ状態になると,あまり動かなくなり,エネルギーも使わなくなります。疲れているときや危機に陥っているときなどはあまり行動をしないほうがよいのです。うつ状態になっていればじっとしていますので,エネルギーを保存し,疲労から回復するのを助けます。また,危機に直面したときは早まって行動したりすると,危機を克服するよりかえって拡大する危険が生じます。むしろ,じっくり考えて対処することが不可欠ですが,うつ反応はその準備をするために必要な時間を与えてくれるでしょう。
 
●異常なうつとは
 それでは,異常なうつ状態とはどのような特徴があるのでしょうか。これらの特徴は,どのような原因でうつになったかということとは関係なく適用することができます。
 第1にいえることは,異常なうつ状態は症状が重いということです。例えば,朝,何かをするのに困難を覚えることはあっても,少し努力すればできるようになるのならば異常とはいえませんが,どんなに努力しても何かを始めることさえできないとするなら,異常なうつ状態といえます。主婦が朝,夫や子どもの食事を用意するのができないようであれば,それは異常なうつ状態です。
 また,正常なうつと比べれば,異常なうつ状態はずっと長く続きます。確かに,主婦が朝の食事さえ準備できないことがあっても1日や2日ぐらいであれば問題はありません。それは蓄積していた疲労からの回復のために必要な休息だったのかもしれないからです。しかし,このような状態が1週間から2週間も継続するのであれば異常な状態と考えなければなりません。
 更に,うつの影響する範囲は,正常なうつと比べれば比較にならないほど広範囲に及びます。その基準は,社会生活,個人生活,対人関係の3つの領域で障害となるかどうかということです。例えば,サラリーマンが朝起きられないということで会社を2日間休んだとします。どんなに忙しい部署で働いていても影響はあるかもしれませんが,その範囲はわずかでしょう。何人かの同僚が超過勤務をするぐらいですむかもしれません。しかし,これが長引いていくと,その影響を及ぼす範囲は自分自身の問題だけでなく,会社の他の部門やあるいは家族にまで至るでしょう。このように異常なうつは広範囲に及ぶのです。
2.うつ状態に陥る要因とは何か
●遺伝的要因――現実を受け入れる
 うつ病のクライアントに家族で誰かうつ病を患った方がいないかどうかを聞くと,本人の兄弟姉妹か両親,あるいは両親の兄弟姉妹,または祖父母等にうつ病の人がいることがしばしばあります。つまり,うつ病の発生には遺伝的な影響があるということです。
 ここでは発症に関する細かな数字ではなく,もし遺伝的な要素が考えられる家族ならばどう対応したらよいかという視点からお話ししたいと思います。
 うつ病のクライアントの場合は,家族について誰かうつの人がいないかどうかを聞いても,よくわからないと答える方が多いのです,また,何の病気かはわからないけれども,ずっと家にいて仕事はしていない人がいるとか,あるいは,自殺した人がいると聞いたことがあるが原因はわからない,ということがあります。これらの場合,断定はできませんがうつの可能性が高いといってよいでしょう。
 おそらくは,家族にうつ病などの精神疾患の人がいても,そのことを伏せておく傾向があるのではないでしょうか。伏せておく気持ちはわからないではないのですが,家族全体にとっては決してプラスではないことを知っておいてほしいのです。自分の家族に遺伝的な影響があるとするなら,その影響は伏せても変わりはありません。いや,変わらないだけならそれでもよいのですが,逆にその影響が強化されるかもしれないということがあるからです。たとえば両親のどちらかが内因性のうつ病だとすれば,その人は確実に遺伝的なものをもっているといっていいでしょう。それはなぜかというと,遺伝的なものがあると,生物学的な原因をつくりやすくしてしまうのです。心理・社会的な要因があると,生物学的な要因に影響を与えますし,その結果として発病を促すようなことになるのです。遺伝的なものをもっていても,だからといって発病するとは限りません。それが表に出てこないことはあるのですが,心理・社会的なうつの原因となりうるものがあると,遺伝的な要因を誘発して発病させる。これらがそれぞれ互いに影響し合うのです。
 家族の中にうつ病の人がいたとします。その場合には注意を要します。これはうつ病の場合だけとは限りません。体の病気でも同じです。両親が高血圧の場合は,私たちが食べ物に気をつけたり,体重,ストレスなどに注意すれば高血圧症になるリスクを軽減でき,ある程度遺伝的なものをコントロールできるでしょう。糖尿病やがんも同じです。うつ的なものもこれと同じだということです。
 どこの国でも同じような傾向があるのですが,私たちはそれを隠してしまいます。近親者にうつ病で自殺した人がいたとしても,それは言わないのではないでしょうか。しかし,それで影響を受けやすくなるということを知っていれば,注意をしようということになるのではないのでしょうか。
 私たちは特別に調べない限りどんな遺伝子をもっているのかわかりません。遺伝子には劣性と優性とありますが,劣性であれば表には出てきません。私たちは自分には何もない,あるいは家族にはないといっても,劣性遺伝としてもっている場合があるわけですから,特定の病気については遺伝的な要因は正確にはわかりません。遺伝的な要因に左右されやすい病気が家族にある場合,恥ずかしいという思いがあると隠したがるのです。しかし,隠せば逆に遺伝的な要因に支配されるようになりますので,事実をしっかりと認めるほうが予防が可能になるのではないかと思います。もちろん隠したい気持ちはわかりますが,家族の間ぐらいでは事実として伝え合って,自分たちを守ろうとすることのほうが,そのリスクを少なくすることが可能なのです。
 うつ的な要因のある人たちは,努力しないと心理・社会的な意味でもうつになりがちだということはわかるような気がします。家庭でも隠そうとし,ひそひそ話したりします。そうなると子どもたちは何かあると思うでしょうし,どうしても抑圧的になってうつ反応をしやすい環境になってしまいます。そういう面でも,これからはもっとはっきりと形にしていかないと,予防の面ではマイナスになってしまいます。私たちが周りの人を見る目も,もっと科学的に正しい知識によって判断していくようにしないと,そのようなリスクが高くなるということを意識してほしいと思います。傾向として落ち込みやすいという状況にあるときには,自分で自分を遡って,どこに問題があるかということがある程度,理解できたらいいのではないか,そのためにも情報をもっていることが役に立つと思うのです。
 遺伝的な影響は後の生物学的な要因や,社会・心理的要因と複雑に絡み合って強化されたり,軽減されたりもするのです。したがって,遺伝的な要因がある家族の場合,その事実を受け入れて他のうつ病の要因を軽減するような努力をするならば,遺伝的な影響を軽減することも可能となるのです。ですから,家族にうつ病の方がいれば,伏せるのではなく,明らかにしたほうが予防措置がとられるという意味からも大切だということを,まず覚えてほしいと思います。
 
●生物学的要因――薬物療法が効果的
 うつ病の原因には神経伝達物質のアンバランスがあります。うつ病と関係のある神経伝達物質がアンバランスになることによってうつ病になってしまうのです。この場合は,抗うつ剤を飲む必要があります。抗うつ剤の働きはこの神経伝達物質のバランスを取り戻すことです。
 女性の場合,生理の前にうつ状態になることがありますが,PMS(生理前症候群)といいます。生理の前にイライラしたり,落ち込んだりする症状が生じることですが,この場合にも抗うつ剤を投与することで症状を軽減するのに効果があることがわかっています。
 また,摂食障害の過食症でもうつ状態になることがあります。この場合も抗うつ剤の服用でうつ的な状態が改善していきます。摂食障害の人で,生理前に非常に精神的に不安定になっていた人が,この薬を飲むことによって,うつ的な傾向と同時に,生理前の不快感が取り去られることもあります。甲状腺の病気の場合もうつになることがありますが,原因はすべて生物学的なものです。この原因は内因性であることがわかりますから,これに対してはどうしても薬物療法が必要です。
 
●心理・社会的要因――カウンセリングによって改善
 内因性でない場合は,外側に原因があってその外側の原因に反応してうつが生じるのですが,これが反応性のうつ病です。
 不況がつづくとリストラや賃金カット等に遭遇しますが,これらは喪失を意味します。喪失に対する反応はうつだということです。リストラされたり給料が少なくなってうつ状態になったというのは健康なうつ状態ですから心配はありませんが,この状況に適応できないで悩みが長期間つづくとうつ病が発生することがあります。また,周りの家族等からいろいろと責めたてられたりするとストレスが増えてうつに進んでいくリスクが高くなります。
 このように,反応性というのは外側にいろいろな原因があるわけです。もちろん具体的なものばかりとは限りません。現代はリストラの時代で,これまで部長だったのが課長に降格されたとします。自分の地位,立場,名誉,信頼などといった目に見えないもの,たとえば自分は信頼を失ったのではないかと想像しただけでもうつになることがあります。反応性の場合は,事実か想像かは関係ないのです。そのように想像しただけでも影響は同じだということです。
 みなさんが財布をどこかに置き忘れたのに,落としたと思ったらどうでしょう。そう思い込んでしまったら,事実と同じ影響があるのです。想像上の喪失したものであっても,反応性のうつ状態に陥ってしまうのです。
 これから景気がよくなるかどうかについて,いろいろな立場の人が,いろいろなように言っています。もしみなさんがもっと悪くなると想像すれば,それが事実か想像かということにはあまり違いはないのです。頭の中でそうだと思い込んでしまったら,精神的には事実と同じ影響が生まれます。繰り返しますが,反応性というのは,原因が内側ではなく外側にあることです。毎日の生活の中で,落ち込んだ人を見ることがあります。うつというのは,何かの喪失に対する反応なのです。そして,これらが慢性化していくと,生物学的な要因を呼び起こす原因ともなりかねません。
 臨床の場でうつのクライアントに関わっていると,同じような心理・社会的な状況に置かれていても,うつを発病する人とそうでない人がいるのに気づきます、それはやはり育ってきた家庭環境が影響していることがわかります。このことは次の「III うつ反応の心理的メカニズム」と「IV うつクライアントとその幼少時代」で詳しく述べます。








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