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日本海深層も汚染されているか?
山下信義・谷保佐知 (産業技術総合研究所)
 
1. はじめに
 本講演は一般の方を想定しているのでなるべく平易な表現を心がけるが、専門的な単語は文献を参照されたい。講演を頼まれた時に依頼元より提示されたタイトルは「日本海深層も汚染されている」であったが、明らかに間違いなので「か?」をつける。「日本海の汚染について話してください」との依頼に対しての私の反応は「は?」であった。私は環境分析化学者の端くれであるが海洋学者ではない。大気・土壌・生物等、様々な環境試料の中に毒物があり「国や研究機関が使っている分析法」では信頼性の高い分析値が出せない場合に「よし、新しい分析法を開発してやる」というのが私の仕事である。開発した方法が実際の環境で使えるかどうかを調べる(検証)ために、確かに日本海・べ一リング海・太平洋、東京湾等も調査したことがあるが、実は海洋学は全くの素人である。船にも弱く、一昨年太平洋を横断した時は作業していない時は吐いているか酒を飲むかのどちらかであった。「私よりも環境省などで有名な方はたくさんいます」と断りかけたが、「あまりたいした講演会ではないので他の人には断られたのだろうか」と思い他の講演者名を見てみると東京大学の蒲生先生がいる。私が論文を書く際にご指導をお願いした「日本海の権威」の蒲生先生がご講演されるなら格式の高い講演会であろう。なんでまた私などに、と思い聞いてみると「環境省などでは海水表面の汚染調査はやっているが、深層までの汚染調査はやっていない」とのこと。私が日本海の調査をしたのは1995年であり、確かに当時は初めてのデータであったが、進歩の速い環境化学の分野で6年たっても類似研究がなされていないのはおかしいと思い、文献検索等を行ってみたが、やはりない。研究室のスタッフにいやな顔をされながら公表されていない日露の日本海調査資料まで調べ、炭化水素と有機スズ測定データは発見したが、それ以外のいわゆる残留性有機汚染物質(POP: persistent organic pollutant)を日本周辺の深海海水について測定した報告は見つけることができなかった。ドイツの友人の研究所では、一緒に開発した方法を用いて大西洋を中心に過去数年間、POPの三次元分布測定を行っているのをよく知っているので日本でも誰かがやっているだろうと楽観していたのだが、予想外の結果であった。私達の研究成果が国際学会誌に掲載されたのが1998年であり、その後すぐ、国立環境研究所の研究者から「うちも深層海水の調査をやりたい」と問い合わせがあった。その際は手持ちの全ての情報を提供し「私の海洋調査用分析装置も貸すので是非やって下さい」と提案しておいたのだが、その後全く音沙汰がない。
 
 なぜやらないのだろうか。いわゆる海洋学の分野ではこのような仕事は常識といえるほど一般化している。数多くの研究で深海海水の動きを炭素14等の放射性核種をトレーサー(指標)として追跡している。また、金属元素や安定同位体をトレーサーとして海水や有機物質の三次元的な動きを研究するのは海洋学の基礎でもある。人工化学物質についても温暖化ガスとして知られるフロン類の海水中三次元的測定例はあるのにPOPはないのはなぜだろうか。
 海は地球の表面積の四分の三を占め、陸地の平均標高1000mに対して、海の平均水深4000mと推定されており、海は陸上よりも三次元的な広がりが大きい。従って、表層から深海までの鉛直分布と三次元的動態の考察を抜きにした海洋学的研究は存在しないと言って良い。にもかかわらず、沿岸を中心にした表面海水の汚染調査は星の数ほど行われているのに対し、水深200-500m以深の中層・深層水の研究はほとんどない。これは、大気経由のPOPの拡散速度は水平方向は非常に速いのに対して、高層大気や高山等、鉛直方向はあまり研究されていないのと似ている。
 また、今回のテーマである日本海は長さ1600km、幅900km、最大水深3700mに対して外洋との接続部分は150m以下の深さしかない細長いお盆のような形で外洋と物質の交換が少ない「半閉鎖系海域」と呼ばれることが多い。そのため、「天然の実験室、natural laboratory」として数多くの海洋学的研究が行われてきた。海洋は陸上で使用された化学物質のたまり場と考えられ、日本海には韓国、北朝鮮、ロシア、日本等、複数の国から放出された産業起源の莫大な化学物質が直接・間接的に流入しており(中国からの黄砂も含む)、これらの化学物質の海洋環境挙動を知ることは国際的な危険性評価において重要である。従って日本海におけるPOPのモニタリングは有害化学物質の越境移動の危険性を適切に評価する上でたいへん重要な研究領域といえる。にもかかわらず、6年間も目立った研究の進展がないのはなぜだろうか。
 
 理由としてはまず、200海里問題等、政治上の困難さから日本海全域にわたる海洋調査を行うことが困難であると考えられる。特に、表面に出ていない汚染物質の海洋投棄は国際社会での責任問題につながるおそれがあるため、一般の研究者は二の足を踏むことも多い。私の知人でも調査中に旧ソ連の警戒船に拿捕されそうになったので北には行きたくないと言っている人がいる。「威嚇射撃されても試料は採取するのが科学者だろう」とその時は冗談を言ったが、実際に捕まったら分析もできないのでやめた方がよい。
 ただしこの問題は太平洋など、公海上には基本的に当てはまらないので、次に考えられる理由は、調査・分析法の困難さであり、これが本講演の主題である。








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