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童話部門佳作受賞作品
海の音色
谷咲 水鳥(たにざき・みどり)
本名=田村 緑。一九七〇年千葉県生まれ。藤女子短期大学卒業。会社勤務を経て、保母職へ。第十七回宝塚ファミリーランド童話コンクール・デンマークチボリ賞、第七回小梅童話賞優秀賞を受賞。北海道札幌市在住。
 
 どこまでも広がる海。
 大きく深呼吸すると、かすかにすんだ音がひびいてくるかもしれません。
 風にくすぐられたように、ふっと。
 耳をすましても、きこえてくるのは波の音、カモメの鳴き声、船の汽てき……。
 けれど、ほんの一瞬その音を感じた胸の中には、たくさんの泡がたちこめるそうです。
 胸の奥深くから、とめどなくキラキラと。
 
 海辺に小さなお店があります。
 窓から海が見わたせて、おいしいコーヒーやのみものをだしてくれるきっさ店です。
 コーヒーをおとす間や、お客さんがソーダ水をのんでいる時、マスターのおじいさんはそっとフルートを吹きました。
 なめらかに流れる曲――。
 それは、だれもが言葉をわすれてしまうほど、すきとおった音色をしていました。
 まるで、目の前に広がる海原をわたってゆく風になったように、心が軽くなるのです。
 水平線のむこうがわに浮かぶ雲をつきぬけて、まっ青な空へとあがってゆく、とうめいな風に……。
 お客さんは曲がおわっても、しばらく窓の外をながめています。
 そしてハッとおじいさんの方を見て、大きな拍手をおくり、きまってこんなことをたずねました。
 「どこかの楽団にでも、いらしたのですか?」
 「いいえ。ずっと一人で吹いていました」
 「こんなに上手なのに、ここだけで吹くのはもったいない」
 「いえいえ。わたしはここじゃないと、さっぱり音がでないものでして…」
 おじいさんはわざとはずれた音をだし、お店の中にわらい声がこぼれます。
 「演奏会? わたしには、とてもとても。海が見えない所では、息つぎさえもうまくできません。まるで、りくにあがった魚のようですよ」
 いつも、にこにこ答えるおじいさんの言葉は半分、本当のことでした。
 もう半分はかなわない、自分の胸の中だけにしまってある想いだったのです。
 
 遠い昔、若者だったおじいさんは、ずっと音楽家になりたいと思っていました。
 そんなおじいさんにとって、大きなコンサートホールは、何よりもあこがれていた場所だったのです。
 おおぜいの観客、広いステージ、ひびきわたる曲、まぶしいスポットライト、われるほどの拍手――。
 その中で、おじぎをしている自分のすがたを、思いえがいていました。
 そして毎日、砂浜でゆたかな海の表情を見ながら、くる日も、くる日も練習をかさねたのです。
 朝のおだやかな海面のように静かな音。
 午後のふりそそぐ光や、子どものわらい声にあわせて、はずんだ音を。
 夕ぐれに金色にそまってゆく海、さざ波ににた、ふるえる音。
 夜は、だれかがわすれていった、サンダルやぼうしにきかせる子もりうたのように、月あかりのゆれにのせて、やわらかく音をゆらしました。
 けれど、おじいさんの夢は、夢のままおわってしまったのです。
 楽団のテストを受けたことも、有名な先生に曲をきいてもらったこともありました。
 一度や二度ではありません。
 何十回とフルートをかかえ、バスや汽車をのりついで、たずねて行きました。
 ところが、どうしてなのか、いつもの音がでないのです。
 うまく吹こうとすればするほど、はずれた音が鳴るばかりでした。
 それを何年かくり返したあと、おじいさんは結婚して、奥さんといっしょに、このきっさ店をはじめました。
 奥さんは十年も前になくなり、子どもは別の町で元気にくらしています。
 (わたしは、ここでフルートが吹けるだけで…)
 そんな想いを、いつも潮風がさらって波に浮かべるのでした。
 
 ある晩のことです。
 おじいさんがお店のあとかたづけをしていると、一人の青年がドアをあけて入ってきました。
 「ああ、すみませんが、今日はもうおしまいです」
 「お茶をいただきにきたのではありません」
 おじいさんが首をかしげると、青年は、しなやかな足どりで窓のそばに立ち、言いました。
 「いつも、すてきな音楽をきかせてくれて、ありがとうございます」
 「これは、どうも。いつも、来ていただいていましたか」
 見たことのない青年だと思いながらも、ペコリと頭をさげます。
 「いいえ、こちらは初めてです。ですが、わたしたちは毎日、あの音色にききほれていました。もう、長い間ずうっと」
 青年の顔が、月の光で、うっすらと銀色に見えました。
 「つかれている者は、ぐっすりとねむることができ、朝は心地よく目ざめ、調子のすぐれない時でも、光といっしょに音がふりそそげば、元気に泳ぐことができるのです。雨の日も悪くないですよ、窓ガラスにあたって少しきこえづらいけれど、気持ちがこう、しっとりとしますね」
 「はあ、まるで海の中からでもきいているみたいだね」
 「そのとおりです。たくさんの魚をはじめ、少々、わすれっぽくなったクジラ、けんかっぱやいサメ、海そうや貝たちも、じっと口をとじてきいています」
 ポカンとしているおじいさんをまっすぐに見て、青年はおちついた声で言いました。
 「おねがいがあるのです」
 「はい…?」
 「三日後の夜は、おひまですか?」
 「ええ、まあ……」
 「それはよかった。じつは、フルートの演奏会をひらきたいと思っています。観客は何千万……」
 「まっ待ってください」
 「どうしました?」
 青年は、すずしげな声でききかえします。
 「わたしは、ざんねんなことに海の見える場所でしか吹くことができません。それに何千万もの観客だなんて、そんなバカな。いったいどこで…」
 おじいさんは何度もまばたきをして、あきれたようにつぶやきました。
 「だいじょうぶです」
 けれど青年はほほえんで、窓の外を指さして言うのです。
 「場所は海の中」
 「えっ?」
 「観客は、このあたりの海にすむ者たちです」
 「は?」
 一瞬、目の前がゆらりと動き、それが魚のむれに見えて、おじいさんは目をこすりました。
 「フルートの音色は波にゆられて、ゆっくりと水の中におりてきますが、みな、その音をもっと近くできいてみたいと思っています。次回の満月は、百年に一度の「海まつり」あなたを海に、おまねきできるのです」
 「海まつり、ですか?」
 「そうです。まつりといいましても、そんなに、にぎやかなものではありませんが」
 「ほう」
 「百年に一度、月が不思議な光を放つ日があります。海の水がきれいになって、生命が生きかえったようになります。その中で、ぜひフルートをきかせてほしいのです」
 青年はまじめな顔で言い、ぼんやりしたままのおじいさんの手をにぎると、
 「では、三日後の同じ時間に、むかえにまいります」
 そう言って、青年はドアをしめました。
 「今の青年は、いったい……」
 おじいさんがあんまり海を好きで、いつもいつもフルートを吹くのを知って、からかわれたのかもしれません。
 それにしては、青年の目は深く、まっすぐなものでした。
 窓をあけると、潮の香り。そして、うちよせる波音。
 海の奥深くで魚たちは、ひっそりときいているでしょうか?
 おじいさんは短い曲を吹き、
 「おやすみ」そう言って窓をとじました
 
 それから三日間、おじいさんは少しそわそわと、すごしていました。
 アイスコーヒーと、アイスティーをいれまちがえたり、レモンソーダに浮かべるこおりを床にばらまいたり。
 そして何気なく、お客さんにたずねます。
 「海まつりって知っていますか?」
 「ああ、あの港でする夏まつりのことでしょう?」
 「あ、いえ、百年に一度の……」
 「百年?」
 「なんでもありません。どうです? コーヒーのおかわりは」
 おじいさんは、わらいながら話をそらしました。
 「海の中のおまつりですよね」
 こんな風に言ってくれる人は、もちろん一人もいなかったのです。
 
 三日目の夜、月はみごとにまるく、すべてのものを見守るように、黒い空高くにありました。
 波間が時々うつしだされ、白くゆれるのをながめながら、おじいさんはフルートをみがきます。
 いつもとかわりのない、静かな夜です。
 時計は、やくそくの時間を十五分ほどすぎていました。
 「海まつりか……」
 からかわれたことは、ちっとも気になりませんでした。
 おかげで海の中のようすを想像できたからです。
 「魚たちに、きいてもらおう」
 そう思って立ちあがった時、あの青年が入ってきました。
 「おまたせしてすみません。みな、とても楽しみにしていますよ」
 青年は、目をまるくしているおじいさんのシャツのえりに、チョウネクタイをきゅっとむすびます。
 「では、いきましょう」
 「ど、どこに、い……」
 言いかけると、あたりがゆれているように感じました。
 そうして、ほんのり青いのです。
 あさせのとうめいがかった水色、しだいに空によくにた水色になり、ゆれぐあいによって、エメラルドグリーンにかわりました。
 コバルトブルーにあたりがそまると、カップやグラスが泡になってパチン、パチンと消えたのです。
 イスやテーブルも消え、かべのはしら時計がプクンとはじけました。
 そのたびに目の前は、深く、こい青色にかわってゆくのです。
 ふいに目をとじ、ふたたびあけると、ぐるりと銀色のかべができていました。
 いいえ、それは、きちんとならんだ魚だったのです。
 おじいさんはステージ、おおきなテーブルサンゴの上に立っていました。
 ま上からは月の光がさしこんでスポットライトのように、おじいさんをてらしています。
 水はあたたかく、何かにつつまれている感じがしました。
 あんまり静かでおだやかで、音などだしてはいけない気さえするほどです。
 ――さあ、どうぞ――
 どこからか、あの青年の声がきこえました。
 耳、ではないのです。
 ゆらりと水がゆれる感じ。
 それが体にあたって、胸の中にひびくような……。
 おじいさんはドキドキしながら、口元にフルートをあてました。
 初めての演奏会です。
 今までのすべての音をだして、ありったけの想いをこめて、曲をかなでました。
 その音色は、どう伝えたらいいのでしょう。
 音は水にとけるのかもしれません。
 とけて、やわらかなひびきになって、体中に広がってゆくのかもしれません。
 
 どの位、吹いていたのでしょう。
 フルートをもつ手を下げた時、あたりは時がとまったように、しんとしました。
 すると何かが、いっせいに光りだしたのです。
 キラキラ、キラキラ。
 こまかな水しぶきがむすうの泡になって立ちのぼり、銀のウロコにあたる光とかさなって、まばゆいほどかがやいていました。
 魚たちが、体のすべてで拍手をおくっているのです。
 「どうもありがとう」
 おじぎをするおじいさんの胸の中にも、たくさんの泡が立ちのぼりました。
 (ずっとずっと、フルートを吹きつづけたい)
 そんな想いでいっぱいになった時、体がとても軽くなったように感じました。
 歩こうとすると尾ビレがゆれ、声をだそうとすると、口からききなれた音が流れだしたのです。
 鳴りやまない、きらめく拍手のあいだを一匹の魚がゆったりと泳いでいくのを、月の光は照らし続けました。
 海の水は、いっそうすんで青く、青く……。








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