小説・ノンフィクション部門大賞受賞作品
≪ノンフィクション≫
帆船の森にたどりつくまで
稔 航一郎(みのる・こういちろう)
本名=田中 稔彦。一九六八年兵庫県生まれ。早稲田大学第一文学部中退。学生時代から演劇・コンサートの照明スタッフとして活動。九一年、大学の先輩と舞台照明会社設立。その後退社して現在はフリーランス。九七年についうっかり帆船での航海に参加。なぜかはまってしまい以後「あこがれ」「海星」などのセイルトレーニングシップでトレーニー、ボランティアクルーとして様々な航海を経験。最近では一年のうち二ヵ月程を帆船の上で過ごす。総航海距離はいつしか一万マイルを超えた。東京都新宿区在住。
<序章>
二〇〇〇年、夏。
ぼくは帆船に乗って大西洋を越えた。
カナダから出航して一ヵ月の航海の末、オランダ、アムステルダムにたどりついた。
アムステルダムでは五年に一度の大きな帆船イベントが行なわれていた。
そこでぼくは、生涯忘れられない素晴らしいものに出会った。
これから記すのは、海にも船にも全く縁のない人生を送ってきたこのぼくが、セイルトレーニングというものと出会い、帆船に惚れ込み、何度も航海を体験し、ついには大西洋を越えて夢のような空間に迷いこんでしまうまでの、ぼくの人生の航海記である。
<二〇〇〇年八月二十四日帆船パレード>
その朝、北海沿岸の港町アイマウデンの空は、眩しいくらいに青く澄みわたっていた。
この街からオランダの首都アムステルダムに向かって、幅三百メートル、長さ三十キロにも及ぶ大きな運河が伸びている。
運河が海に注ぐ場所、水位を調整するための二重の水門にはさまれて、ぼくたちの船はパレードが始まる時を待っていた。デッキからは、周りで同じようにパレードを待っている大型の帆船が何隻も見えている。
全長五十メートル。なりこそはやや小さいものの、ぼくたちの船も周りの船に負けず、大西洋を乗り越えてきた頼もしい船だ。だけどこうして大きな船に囲まれてしまうと、船の方もなんだか少しかしこまってるみたいだ。
*
ぼくたちの船、帆船「あこがれ」は大阪市が所有しているセイルトレーニングシップだ。
セイルトレーニングとは帆船での航海や操船を実際に体験することによって、一般の人々に海や帆船に親しんでもらうこと、そして日常とは違う価値観や時間の中で生活することによって、自分の中に眠る新しい自分の側面に出会うことなどを目的としている。
二〇〇〇年夏。「あこがれ」はカナダからオランダへ大西洋を横断する「トールシップ2000」という帆船レースに出場した。
常勤のクルーの他に、日本からやってきた訓練生(トレーニー)、船や帆船に縁のないごく普通の若者たち二十三人を乗せて。
そして一カ月に及ぶ航海の最後の最後に待っていたのが「セイル・アムステルダム」という世界最大の帆船イベントヘの参加だった。
*
「ロックが開いたよ」へさきにいたトレーニーの一人がメインデッキのぼくたちに知らせにきた。外されたもやい綱が手繰り込まれる。フェンダーが舷側から引き上げられる。
運河の側壁の上には見物の人がすずなりになって手を振っている。目の前で他の帆船がゆっくりと運河に向かっていく。あたりに響く歓声がだんだん大きくなっていく。微風をついてあちこちから拍手の音が耳に届く。
そしてとうとうぼくたちの船もゆっくりと岸を離れていく。いよいよパレードが始まる。
ぼくはへさきへ移動しようとした。進んでいく運河の様子を早く見たかった。操舵室脇の狭い通路を足早に歩く。建物の影を抜けると風が優しく頬をなでた。大きく開けた視界の中に予想外の物が飛び込んできた。
「なんや、これ」ぼくは思わず声をあげた。
そこには森が拡がっていた。
ぼくたちが進んでいこうとしている運河は、見渡すかぎり高く、真っすぐに伸びた針葉樹の立ち並ぶ、奥深い森の様だった。
森のところどころ、大型帆船の丈の高いマストが辺りを圧倒するようにそびえている。
その周りをびっしりと、ヨットの少し低いマストがすきまなく取り囲み、足元にまつわりつく森の下草のように、無数の小さなボートが水面をすっかり覆い隠していた。
それは帆船の森だった。どこか厳かな気配さえ漂う、静かで深い森のたたずまいだった。
「どこを走れっちゅうねん」いつしか隣に立っていたクルーの一人が正面に目を向けたままで陽気に声をあげた。差し込む柔らかい朝日が彼の笑い顔を明るく照らしていた。
水面のさざ波がまぶしく揺れる向こう、明るい空を背景に、帆船の森は輝くシルエットになってどこまでも遠く深く拡がっていた。
ぼくは言葉が出なかった。身動きひとつできなかった。目の前に無造作に拡がる夢のような光景をただ呆然と見つめるだけだった。
カナダを出てここまでの一ヵ月の航海。乗ることが決まってから実際に航海に出発するまでの半年あまりの日常。そして初めて帆船に乗ってから今日この時までの三年半。
その全ては、今、目の前に繰り広げられているこの風景に出会うそのためだけにしくまれていた、そんな気持ちにさえなってくる。
ぼくたちの船はゆっくりと進んでいく。明るい森が包み込むように近づいてくる。気がつくと周りには何人ものトレーニーの日焼けした顔が並んでいた。みんなぼくと同じように目の前に広がる運河の景色に見とれていた。
パレードが始まる。この場所、この時間を目指して、ぼくたちは遠く大西洋を越えて航海してきた。運河の両側の土手はたくさんの人出だ。手を振るオランダの人々。船からも大勢が陸に手を振り返している。
不意に、目頭がほんの少し熱くなった。もう、航海は終わろうとしている。ぼくたちの船は帆船の森にゆっくりと分け入っていく。
<ぼくが帆船と出会うまで>
そのころのぼくは忙しく充実した毎日を過ごしていた。そのころ、とはぼくが帆船に乗るようになる前のことだ。ぼくは二十八歳で、コンサートや演劇の裏方、舞台照明を仕事にしていた。所属していた会社を辞めフリーランスになって二年。幸い仕事は順調だった。小さなオフィスを構え、気の合う仲間と仕事をする。忙しすぎて休みがないのが唯一の不満、そんな毎日を送っていた。
「どこかへ行きたい」それがずっと昔、まだ高校生くらいからぼくの口ぐせだった。授業中、高台にある教室の窓から見える街に向かい、ぼくはいつもこの言葉をつぶやいていた。
「どこか」はもちろん地理的な意味ではない。だけどほんとうはそれが何なのか、ぼくにもちっとも分かっていなかった。
ごくごく平凡で、うんざりするくらい退屈しているくせに自分だけではなにひとつできやしない若いぼくにとって、その言葉は魔法の呪文みたいなものだったのかもしれない。
その言葉を唱えていれば、いつかこことは違う「どこか」へ行けるかも。そう無邪気に、無責任に信じていたのかもしれない。
そしてその言葉は、ずっとぼくを捕まえて放さなかった。小説、音楽、演劇。歳を重ねても、ぼくは自分を「どこか」へいざなってくれるものを探して生きていた。そしていつしか、ぼくはイベントスタッフという形で生活の糧を得るようになっていた。劇場から劇場、街から街へ渡り歩き、舞台がハネたら飲み屋に直行。それはいごこちのいい空間だった。ライブや演劇という好きなものに囲まれた毎日。非日常が連続する日常。ここが探していた「どこか」なのか。そう考えたこともある。それはそれで悪くないと思っていた。
けれど非日常な時間も慣れてしまえば日常になる。きらきらと輝いて見えた景色も繰り返して見ていれば飽きがくる。
ぼくの周りのものは全て精密な虚構だった。そしてぼくの仕事はその人工的な世界を創るのに一役かうことだった。そんな仕事だからこそぼくは愛した。けれどいつしか、ぼくは自分がいつもどこかふわふわとしたものに包まれて現実の世界から隔てられている、毎日がお祭りのような時間の中で本当に確かなものからは少しずつ遠ざかっている、そんな不安を感じ始めていた。
ぼくの心の奥底で何かが微妙にきしみ始めていた。終わらない夢の日々さえぼくの退屈を完全になぐさめてはくれない。本当の退屈はもしかするとぼく自身のなかに巣くっているのではないのか。そんな絶望的な事実にぼくは少しずつ気づき始めていた。
ぼくが初めて帆船「あこがれ」に乗ったのは一九九七年の二月。大阪から鹿児島までの一週間の航海だった。
それまでぼくにとって「海」はとても遠いところにあった。マリンスポーツはやらない。船やヨットにも特に興味がない。海水浴で海に入ることさえずいぶんご無沙汰している。「海」はせいぜい眺めるもの。ドライブの背景。小説やアニメの舞台設定。ただそれくらいの関心しか持っていなかった。
きっかけは一冊の本だった。時間つぶしに入った書店の棚から何気なく手に取った「あこがれが航(ゆ)く」という本。そこでは大阪市が帆船を持つにいたった経緯と、実際の航海の様子がことこまかに紹介されていた。
帆船に乗って航海をする。想像したこともないようなことが現実に体験できる。そのことがぼくを引き付けた。面白いかもしれない。
その本では当然「あこがれ」の航海、そもそもの目的であるセイルトレーニングについても触れられていた。
「大自然の海を舞台にした航海を通じて、責任感、協調性、決断力、チームワーク、リーダーシップ、チャレンジ精神を養い、新しい自分を発見する」その本で説明されていたセイルトレーニングというものの定義だ。
正直、その時のぼくにはピンとこない言葉だった。航海は確かに面白そうだ。それがどうしてこんなに説教臭い言葉で語られないといけないのかが結びつかなかった。
まあ、いいや。ぼくはあんまり考えないことにした。何か面白いものにぶつかるかも。そんな軽い気持ちで、ぼくは初めての航海へと向かったのだった。
<一九九七年二月 初めて帆船に>
初めて「あこがれ」を見た印象は「小さい船!」だった。風が冷たい薄曇りの二月の大阪南港。船に乗ろうと集まってきたのは、十代から五十代までの様々な人たち。その大半は帆船での航海なんて初めてだった。
二月の海。強い風に波しぶきがデッキの上にまで降り注ぐ。それでも、セイルを開くために何本ものロープを引く。吹きさらしのデッキ上、風が容赦なく体温を奪っていく。高さ三〇メートルのマストの上での作業もある。操舵や見張りはトレーニー全員が交替で二十四時間途切れることなく引き継いでいく。
「しまった、とんでもないところにきてしまった」正直、ほんの一日二日の間さえに、何度そんなことを考えたか分からない。それでも陸ははるか遠くに影さえ見えない。狭い船の中、逃げる場所はどこにもありはしない。
あわただしく何日かが過ぎた。そう簡単に慣れはしないが、なんとなく船での暮らしも板についてくる。ほんの少し、陸での暮らしから視線の位置をずらしてみる。日常とは違うつらさがあるということは、日常とは違う楽しさもあるということ。ぼくたちは少しずつそんなものを見つけていた。
操船や操帆も分かってくればおもしろくなる。少しでも手早く。少しでも美しく。マストに登っての作業の合間に、周りに拡がる太平洋の雄大な景色に眼をやる余裕もでてくる。走る船にならんで泳ぐイルカの群れに歓声をあげて手を振ったこともあった。
眠くて寒い深夜の当直中でさえ、いろんなものを見つけた。へさきが波を分けて進む波頭で、夜光虫が蛍光塗料のようなやけに鮮やかな光を放っていた。月が昇れば真っ暗だったデッキが淡く蒼い光で染められる。都会でしか暮らしたことがないぼくにとって、それは初めて見る本物の月の光だった。
航海が進むに連れて天候は少しずつよくなっていった。波は穏やかになり風は二月とは思えないほど暖かくなった。トレーニーの顔から笑顔がこぼれることも増えた。春先のような柔らかい太陽に照らされたデッキや、一日が終わってくつろいだ気分の夜の食堂で、ぼくたちはお互いのことを語り合ったりした。
船の雰囲気は目に見えて変わっていった。
それは不思議な時間だった。当り前に生きてきた世の中から遠く離れた生活。社会的な約束事は意味をなくし、日付けや曜日さえあいまいになっていく。船に乗るまで見知らぬ同士だったトレーニーたち。年令も職業も船にやってきた理由も様々なメンバーが狭い船で一緒に暮らし、協力して船を動かしていく。
ぼくたちトレーニーにとって、その瞬間の目の前のものだけが全てだった。海、船、風、航海。全ての余分な価値観は消え失せる。
そんな時間の中で、ぼくたちはぼくたちのためだけの新しいルールや関係性をゆるやかに結びつつあった。
船の中は狭い。乗っている人間も限られている。何日も暮らしていると自然とトレーニー同士で仲良くなる人もできてくる。
そんな一人に高校三年生の男の子がいた。本人が知らないうちに両親に乗船を申し込まれていた彼は、体調がいまひとつということもあって出航直後はあまり楽しそうな顔を見せなかった。けれど何日かするうちに本来の陽気さを取り戻し、楽しいこともつらいこともひっくるめて、航海をしっかりと受けとめるだけの芯の強さを見せるようになっていた。
ある日、航海最終日、鹿児島港に入港の日が実は高校の卒業式だと彼から聞かされた。
「出たかったですよ。卒業式」彼はいつものようににこにこ笑いながら言った。
船のスタッフの一人がその話を聞きつけた。その人はぼくと彼が仲がいいことを知っていて、ぼくにこんなことを言った。
「船の上で、彼の卒業式をやってあげたら」
二人で密談を重ねた結果、航海の最終日、本人には内緒で彼のために卒業式のまねごとをしようということになった。
船のクルーにはスタッフの人から話を通してもらう。本人以外のトレーニーにはぼくがこっそりと呼びかけて協力してもらう。そして全員で寄せ書きをした卒業証書を作って、卒業式の時に船長から本人に手渡してもらう。悪巧みのあらましはこんな風に決まった。
本人がいない時を見計らってトレーニーに卒業式と寄せ書きのことを呼びかける。そう言う役回りは苦手なのだが自分が首謀者ということではそうも言っていられない。
実を言うとぼくはかなり不安だった。このアイデアにみんながノッてくれるのかどうか。寄せ書き作りも航海最終日の午前中になってしまった。ぼくや彼とあまり話をしていない人もいる。下船の準備などで忙しい時に、みんなは快く協力してくれるのだろうか。
ところがぼくが思っていたよりずっとみんなは協力的だった。進んで時間を見つけては寄せ書きにメッセージを書込にきた。若い人から年長の方々まで。様々な立場の人からそれぞれの、その人なりの様々なメッセージ。
お昼のデッキで卒業式はとりおこなわれた。クルーも含めた全員がデッキ上に集まった。当の本人だけが何が始まろうとしているのか全く分かっていない。みんなに押しだされるようにして彼は船長の前に立った。
船長から手渡される寄せ書きをした色紙。周りからはやしたてるような拍手。彼はようやく状況がわかったみたいだ。
彼ははにかんだような笑顔を見せた。ふりかえりみんなに何かをしゃべりかけようとした。普段はうるさいくらいに冗舌な彼なのになぜか言葉はひとつも出てこなかった。
彼はひたすら照れて、しどろもどろになって、いつもよくやるようににこにこと笑っていた。顔中を笑顔にして笑っていた。
彼を取り囲んでいたぼくたちも笑った。透明な青空の中へぼくたちの笑い声はゆっくりと吸い込まれていった。
<ぼくのセイルトレーニング>
それからぼくは何度か「あこがれ」で航海をした。その度に新しい旅の仲間ができ、航海の雰囲気はいつも全く違っていた。大時化の海に帆走した航海。凪の海でひたすら遊んだ航海。少人数でこじんまりと旅したことも、大人数でワイワイ走ったこともあった。
セイルトレーニングの魅力を言葉で説明するのはとても難しい。それは航海ごとに表れてくるものが全く違ってくるからだ。そして同じ経験をした一人一人にとっても、航海の魅力は違ったものになってしまうから。
ぼくは他人という存在が苦手だ。
人と一緒に遊んだり何かをするよりも、一人で自分が気に入ったことをしているほうが楽しく感じる、そんな人間だ。
裏方という職業が性にあっていたのは、自分の技術がそのまま収入につながり、わずらわしい人間関係や不特定多数の人とつきあわなくてもいいことも理由のひとつだった。
だから、見知らぬ人たちと狭い船の中で生活しなくてはならない航海は、ぼくにとっては苦痛でしかないはずだった。
しかし航海する中で、ぼくは気付いた。
ぼくは確かに一人が好きだ。けれど一方で、他人を拒否するのと同じようなかたくなさで他人を求めてもいることを。
ぼくが求める孤独は人里離れた山の庵や、絶海の孤島に生きるような絶対の孤独ではなかった。路地裏の小さなアパート。誰からもふりかえられないけれど、気が向けばすぐにでも街の雑踏のなかにまぎれこめる。それがぼくが本当に求めていた孤独だった。
孤独に憧れながらも心のどこかで他人を求めてしまう、それはぼくの弱さだった。その弱さを薄々は知っていながら認めたくなくて、ずっと無意識のうちに目を背けていた。
けれど航海に出て様々な人と出会う中で、心の奥のそんなどうしようもない部分がなぜか生々しく立ちあらわれてきた。そしてそんな弱い部分をそのままで受け入れていこう、なぜかそう思えるようになっていったのだ。
他人が自分と違った存在であることを認めた上で、航海のために力を合わせる。ぼくにとってそれはそのまま他人を受け入れるためのトレーニングだった。そしてそれは、そのまま自分を見つめなおすことでもあった。
自分はどういう存在なのか。自分が求めているものは何なのか。自分の価値観とはどういうもので、どのくらい強固に形づくられているのか。自分のなかにある今まで気付かなかった新しい部分。自分には欠けている大事なもの。どんな状況でも変わることがない心の奥底のコアな部分。
航海を重ねるたびにぼくは自分の中に色々なものを発見していった。三十歳に近い自分の内に、まだこんなにも様々なものが眠っていたこと、ぼくにはそれが面白かった。
もちろん、航海の魅力はそれだけではない。けれどぼくが何度も何度も船に乗り続けた理由の大きな部分はそこにあったのだ。
<大西洋横断帆船レース>
「トールシップ2000」レースは今世紀最後にして最大の帆船レースとして企画され、四月から八月にかけて四ヵ月以上に渡り、北中米・欧州・北大西洋を舞台に開催された。
四月中旬から五月初旬にかけて、イギリス、サザンプトンからスペイン、カディスまでの約二週間の第一レースを皮切りに、ほぼ同時期にイタリアのジェノバから同じくカディスへ向かう第二レースが行なわれた。船団はカディスから大西洋を西向きに渡り、中米バミューダ島をめざす。この行程が第三レース。
バミューダからボストンの間はレースを中断。各帆船がそれぞれの判断で航海するクルーズインカンパニー。この間にニューヨークの帆船パレードに参加した帆船も多かった。
ボストンで再び集結したフリートはカナダのハリファックスまで二週間かけての第四レースを行ない、最後となる第五レースではカナダを出てオランダ、アムステルダムヘ、大西洋を西から東へ横断するルートを帆走する。
レース中の各寄港地でもそれぞれイベントが行なわれる。大西洋をまたにかけたこのレース、スケジュールをざっと並べただけでも、その規模をうかがい知ることができる。
もちろん全行程に参加する帆船ばかりではない。スケジュールや船の能力に合わせて一部分だけに参加するのが大半。寄港地の地元帆船やヨットには、現地のイベントだけに参加してレースには出艇しない船も多い。
帆船「あこがれ」はこの内で第四・第五の二つのレースにエントリーしていた。そしてぼくは第五レース、カナダからオランダまでの一ヵ月の航海に乗船することになった。
今までに乗った一番長い航海でも二週間。一ヵ月間、陸地を見ることもできない航海に不安は大きかった。けれど逆に、今まで経験できなかった何かに出会えるかもしれない期待は、不安よりもずっと大きなものだった。
七月二十三日、朝、乗船。この日は停泊したままの船内で操船や当直のやり方のレクチャー。トレーニー同士まだお互いのことがよく分からず、どこか探り合っている感じだ。
明けて七月二十四日、朝、「あこがれ」はカナダのハリファックスを出港。ハリファックスでのイベントに参加したヨットや帆船が一団となってパレードしながら港を出ていく。
そのパレードに混じって進む「あこがれ」のデッキから、ぼくは周りの光景を見ていた。
日本でも見たことがある「海王丸」の白い船体。ロシアの「クルゼンシュテルン」の黒光りする巨体に、それにも見劣しないロシアの「ミール」、ポーランドの「ダルモジェジイ」などの大型帆船の堂々とした姿。それに比べると小型ながらそのぶんほっそりと軽快なシルエットのオランダ船「オーステルスヘルデ」やアメリカの「プライド・オブ・ボルチモア」も見える。
帆船好きを自認するぼくにとって、それはたまらない光景だった。雑誌や写真集でしか見たことのない帆船の数々、それが隊列を組み、帆をかかげ、次々と目の前に登場する。
午後、レーススタートを待つ船団が沖合に集まる。スタートラインの周りでは、帆をいっぱいに掲げた参加艇が狭い海域に固まってスタートの時を待っていた。少しでも有利な位置を確保しようと大型帆船がつばぜりあいを見せる。そのすき間に小型の帆船が割って入る。それは現実の光景ではなく自分がはるか昔にタイムスリップしてしまったみたいな不思議な景色だった。
スタートの時がきた。風を帆にいっぱいに受けた帆船が次々とスタートラインを通過していく。ヨーロッパを目指して、長いレースが始まろうとしていた。
スタートのちょっとした興奮が治まると、待っていたのはごく当たり前の航海だった。
レースが始まるとトレーニーによる当直態勢もスタートした。舵を握り、コースを修正し、GPSでポジションを確認する。風をよみ、セイルを調整し、遠い海面に他船の影を探す。明けても暮れても深夜でも、それが帆船の航海でのごく普通の毎日だった。
スタートしてしばらくすると風がなくなった。デッキから見ると、さざなみひとつ見えないとろんとした海面に力なくセイルをたるませた船が遠く近くに何隻も漂っている。
やがて吹き始めた風は最悪の東風。船は南へと押し流され、目標のコースからはじりじりと遠ざかっていく。スタートから一週間ほどはひたすらがまんを続ける日々だった。
この航海のトレーニーは、レース規定の関係で二十六歳以下の若者たちばかりだった。
約半分を占める二十代のトレーニーの中には、以前にも帆船での航海を体験した人が結構多い。彼らはそれぞれに自分なりの思いを持ってこの航海にやってきていた。大学生や社会人といった立場の違いこそあるものの、お金を貯め、休みを調整し、中には仕事をやめてまでこの航海にきた人もいる。
一方で高校生も何人かいた。そのほとんどは帆船は初めて。しかも両親から勧められたりして軽い気持ちでやってきていて、レースや帆船への興味もあまり持っていない。
しかし、いざ航海が始まってしまうと、そんなそれぞれの事情にはおかまいなしに船は進む。スタート前日にごく簡単に説明を受けただけで始まってしまった航海。慣れない環境での不規則で緊張を強いられる生活。
そこへ様々な悪条件が追い打ちをかける。
向かい風に逆らって、船はできるだけ風上に切りあがろうとする。そうすると風と一緒に向かってくる波にまともにぶつかる形になる。絶え間なく大きな縦揺れが続き、へさきで砕けた波がデッキを洗う。激しい揺れにトレーニーのほとんどが船酔いに苦しんでいた。それでも船は走らなくてはならない。
風向きが悪い中で少しでも目的地に近づくためには何度も方向転換を繰り返さなくてはならない。そして帆船では向かい風での方向転換は全員でとりかかる大仕事だ。そのたびに、夜中であろうが船酔いに苦しんでいようが全員に呼び出しがかかる。
「オールハンズ・オンデッキ」航海中に最も聞きたくない言葉がこいつだ。それなのにこの時期、何度も何度もこの言葉が船内のスピーカーから流れてくるのを聞くはめになる。
進路を大きく変えようとする時や天候や風の急変などに対応するためにセイルを大幅に調整したり畳んだりすることがある。当然ながら当直の人間だけでは手が足らなくなる。そんな時には情け容赦なく手空きの人間に呼び出しがかかる。その「総員呼集」を意味するのが「オールハンズ・オンデッキ」だ。
放送がかかるとできるだけ早くデッキに集まる。昼であろうと夜であろうと、食事中や睡眠中、もちろんシャワーを浴びてる時だって例外ではない。操帆作業の中にはそれほどタイミングが重要になるものがあるのだ。デッキにあがればロープを引いての操帆作業やマストに登っての高所作業が待っている。
最初の一週間は向かい風にただひたすらセイルをさわり続けた。乗船したばかりのトレーニーにはかなりこたえる毎日だった。呼ばれれば集まり言われたことはやるが、時間が少しでも空くとデッキやベッドに横たわりぐったりと動かないそんな姿があちこちで見られた。とても航海を楽しむどころではない。
特に高校生たちは悲惨だった。もともと航海がどういうものかのイメージもないままで乗り込んできて、わけの分からないまま大西洋まで連れ出されて時化に突っ込んでいく。
後日、この時の感想を高校生たちに聞いてみると、せっかくの夏休みなのに、なんでこんなところに来てしまったんだろうと思っていたというのがほとんどだった。
風が徐々に南へ回りはじめて、七月二十九日、夕方。船はようやく進路を東に向けた。風は南寄りで安定し、航海はようやく落ち着きを取り戻した。揺れもいくぶん治まりセイル操作も少なくなった。船内の生活スタイルもだんだん分かってきたし、揺れる船に体もなじんできて、体調を崩していたトレーニーたちも少しずつ元気を回復していった。
時化の中で丸三日間何も食べられず「このバナナを食べるか、この揺れの中で点滴を打たれるかどっちか選べー」と同乗していた看護婦さんに脅されて泣く泣くバナナを飲み込んでいた奴も、胃が荒れて吐いたものに血が混じって大騒ぎしていた奴も、不思議なものでいつのまにかすっかり元気になっていた。
ここで帆船「あこがれ」での一日の生活の流れを簡単に紹介してみたいと思う。
このレースには二十三人のトレーニーが乗っている。ほかに十三人の正規クルー、五人のボランティアクルー、四人の取材スタッフの合計四十五人が船に乗っている全員だ。
全ての乗組員はお互いをニックネームで呼び合う。陸での自分を一度捨て去って新しい関係性を造るためだ。クルーとて例外ではない。船長を「じんさーん」などとフランクに呼べる船なんてそうそうあるものではない。
トレーニーは「ワッチ」と呼ばれる四つの班に分けられ、それぞれのワッチが交替で航海当直や食事の支度の手伝いなどにあたる。
航海当直は一日を四時間ずつの六つの時間帯に分ける。十二時から四時、四時から八時、八時から十二時。これが午前と午後にそれぞれ繰り返される。それぞれの時間に各ワッチが割り当てられる。おおよそ、午前と午後は同じ時間帯に当直に立つことが多い。それ以外に食事の支度や片付けを主に手伝うスペシャルと呼ばれているワッチがある。
朝は六時半のデッキウォッシュから始まる。手空きのスペシャルとその時の当直班でデッキに海水をまき、二つ割りにしたヤシの実で表面の汚れをこすり落とす。朝食は七時半。八時から当直に入るワッチは早めに食事をとり当直中の人間と交替する。夜中四時まで当直に立っていた人たちは少しでも長く寝ていようと朝食を食べないのがほとんど。
十時に全員が集合してミーティング。ここで全員が叩き起こされる。その日の予定やこれまでの状況をキャプテンが乗組員に説明。
その後はお待ちかねのハッピーアワー。なにがハッピーかというと船がきれいにされてハッピーになるというただの掃除の時間。
掃除がおわるとまもなく昼食。朝と同じように十二時からの当直班から食事をとって順次交替していく。
航海当直中の主な仕事は、操舵、海図へのポジション記入、見張りの三つだ。これを当直ワッチのメンバーが交替で行なっていく。チャートルームで海図に位置を入れ、風向きなどを考えてコースを修正する必要が出てくれば操舵手に伝える。操舵手は舵輪を操作して船の進路を維持する。見張り員は双眼鏡片手にへさきに立って他の船や漂流物を探す。
午後は天気がよければデッキでイベント。ゲーム大会や運動会、各種の訓練などをしたりする。イベント後、当直班は当直に戻り他は待機もしくは船内の整備作業に駆り出される。作業の内容はといえば、ペンキ塗り、さび落とし、ニス塗り、ブロック(滑車)の手入れ、真鍮磨きなどなど。そして五時半頃に夕食になるとデッキ作業は終了。当直ワッチは当直を続け、それ以外は休憩となる。
もちろん、毎日がこんなに決まった調子で過ぎていくわけではない。夕食後にレクチャーが入ったりもするし、セイル操作などは全く不規則に割って入る。そのために全体の予定が大きく変わることもそうめずらしくはない。
風や天気がよくなって航海が落ち着いてくると、今度は退屈が襲ってくる。
大西洋は広い。スタート直後こそ何隻もの帆船が並走し、時には抜きつ抜かれつの展開になることもあったのだが、やがて船団は海原の向こうへばらばらに見えなくなりレーダーの画面からも消え去ってしまった。風が安定するとセイルの調整も少なくなる。だだっ広い大海原では見張ってるのがバカらしくなるくらいなんにもみつからない。操舵だって真っすぐ船を進めるだけになってしまうと腕の見せようもない。そんな時間が続くと、さすがに緊張感が少しずつ薄れてきてしまう。
時には大きな虹が空いっぱいにアーチを描くこともあるし、船をすっかり取り囲むイルカの大群がみごとなジャンプを披露してくれることもある。けれどそれはほんのときたま。航海の大部分はただ淡々と過ぎていく。
そこで雰囲気を盛り上げて気分をリフレッシュするために、午後の時間にいろいろなイベントが企画される。ゲーム大会や運動会なども何度も行なわれた。ロープやネット、デッキブラシやヤシの実といった帆船ならではのアイテムがここではよく登場する。
時間つぶしに様々なクラブ活動も始まった。最初に流行ったのはハンドレール磨き部。船の手すりのチーク材をサンドペーパーで磨き上げるという実はただの作業なのだが、一時期なぜか大勢が熱中し一世を風靡していた。
他には、人がデッキで寝転んでいると突然あらわれて無理矢理に前屈や股割りをやらせるはた迷惑な柔軟部。手ごろなロープの切れ端で作ったお手玉を使ったジャグリング部。デッキの目につく限りの金属部分をぴかぴかに磨いて歩くブラスワークマニア。トランプしてても日本語厳禁、ESSなどがあった。
そんななかでひそやかにだが確実に勢力を拡大していたのはひみつ同好会。航海中、人目につかないところで実に有意義な活動を重ねていたのだが、その活動内容は名前の通り部外者には極秘扱いなのでここに書くことはできない。いやあ、残念だなあ。
他には女性陣が中心となった音楽同好会。一部男性陣が周囲のブーイングにもめげずに男気を感じる歌を歌い続けた、男!音楽同好会(ちなみに十八番は「セーラー服を脱がさないで」)夕食後にデッキを占領して走り回る野球部にテニス部。六分儀と関数電卓が手放せない天測部など枚挙にいとまがない。
レース中とは思えないのどかな話ばかりだがそれでも船は進んでいく。航海が落ち着いた八月一日の時点で「あこがれ」の順位は参加三十六隻中最下位だった。序盤でのロスがたたっていて、まあ仕方のないところだ。
ところがこの後「あこがれ」の順位がどんどん上がっていくという怪現象が発生した。
レース本部から各船の位置をもとに毎日発表される順位を追い掛けてみると、最下位だった翌日に二十四位とやや持ちなおし、二十位、十六位、十三位と一週間の間、こっちは何もしていないのに順位だけは上がっていく。
数字の上では二十隻以上の船をごぼう抜きにしていることになるのだが、広い大西洋で実際に見えてる中で抜いたのはたったの一隻。船はただいつもと変わりなく走っているだけなので、順位が上がってもどうにも実感が湧いてこなかったのが正直な気分だった。
十二日にはとうとう七位にまで順位を上げる快進撃を見せた「あこがれ」は、南からの風を受けて大西洋をひた走った。船内ではフィニッシュタイム当てクイズやランドフォール(陸地初認)コンテストなど、ゴールの時へ向かっての雰囲気が着々と高まっていく。フィニッシュイベント実行委員会も組織され、お祭騒ぎの準備にもぬかりはない。
そして八月十五日、十九時八分、「あこがれ」はイギリス海峡ワイト島沖合に設定されたフィニッシュラインを駆け抜けた。
ゴールの瞬間、デッキで待ち構えていたトレーニーの手によって、どら、笛、クラッカー、汽笛(?)などなど、船内から掻き集めた鳴り物が総動員され、実行委員会がこの日のために作った、乗組員全員の手形を縁飾りにした「大西洋制覇」の大きなたれ幕がマストから吊された。
陽がだんだんと暮れていく中、航海中は畳まれたことがなかったセイルが初めて全て畳みこまれた。エンジンに久しぶりに火が入り、船は機走で海を進んだ。二十二時過ぎ「あこがれ」はイギリス南岸、ポーツマスの沖合いにこの航海で初めて錨を入れた。
日暮れの遅い高緯度の夏は、まだようやく夕焼けから夜の闇へと変わろうとしているところだった。投錨作業が終わったデッキから海岸線のところどころに街の灯が見える。
三週間ぶりに見る街の灯。黙って見ていると、ようやくレースが終わったのだという実感が体の奥からじんわりと湧き上がってきた。
翌朝、「あこがれ」はイギリス海峡から北海に向かって錨を上げた。とりあえずの目的地はオランダ、北海沿岸の港町アイマウデン。二十四日のアムステルダムヘの入港パレードまでその街で停泊して休息をとる。
十八日、これまでの航海とトレーニングの総仕上げ、トレーニーズデイが行なわれた。
これはその日一日、船の運用一切をトレーニーに委ねるというものだ。トレーニーの中から船長やその他の役割を選び、当直の割り当てから進路の決定、操帆号令、はては食事の支度に至るまで、全てをクルーの手を借りずにトレーニーだけで手分けして行なう。
この日「あこがれ」は見事に北海を帆走した。タンカーやフェリーが行き交い、海底油田の櫓が立ち並び、なぜか海底に"爆発性"のものがあると海図に記載されているいやな海域で、トレーニーたちはセイルを上げ、二度の方向転換を難なくこなし、昼食のカツ丼の評判も上々だった。乗船当初は頼りない印象でまとまりもなかったトレーニー達が、一月近い航海の中で様々なものを吸収し、それぞれの役割を見つけ出し、自分たちの意志で航海を楽しめるまでに変わっていた。
午後、セイルを畳む時間になった。クルーが誰も手を出さなくても、セイルは着実に畳まれロープでマストに固定されていく。
全てのセイルが畳み込まれ、夕方、船はアイマウデンの港に入っていった。
"陸や""家や""オランダ人や"目につくもの全てが新鮮に感じる。にぎやかに騒ぎたてる中で、船は港の奥へ進んでいった。
長い長いレースはこうして幕を閉じた。
<港町、アイマウデン>
人口一万五千人。首都アムステルダムヘつながる大運河の入り口。それがぼくたちが船をつけた街、アイマウデンだ。
街では、レースを終えた、またヨーロッパ各地からアムスでのイベントにやってきたヨットや帆船が岸壁を埋め尽くしていた。
海の上で長く過ごした後だと、揺れない地面の感覚はかえって落ち着かない妙な気分だった。全員で遊びにいった浜辺では、久々に広い場所でめいつぱい体を動かせる喜びで、みんな子供みたいに砂浜ではしゃぎまわった。
街は帆船の訪れにお祭騒ぎだった。岸壁には露天が立ち並んでいた。二日間行なった「あこがれ」デッキ上の一般公開には連日千人をはるかに越える人がつめかけた。トレーニーの女の子たちが折紙で鶴を折って地元の子供に配るのがかなり評判になっていた。
空き時間に他の帆船を見にいったりもした。
世界最大といわれるロシアの「セドフ」は構造物や艤装品のひとつひとつまでが見慣れたものより一回りは大きかった。乗組員のロシア人達もみんな大きくて、なんだか巨人の国に迷いこんでしまったみたいな気分になる。
地元オランダの「オーステルスヘルデ」は百年近く前に作られた船だがいまだに現役でレースにも参加した。木造の部分が多いが手入れもしっかり行き届いた美しい船だった。
岸壁で隣に並んだブルーの船体はカナダの「コンコルディア」。高校を卒業して大学の受験準備中の若者たちが、一年間、大西洋を北から南まで航海を続け、当直もしながら受験勉強もしていく。教科ごとの教官も乗っているしコンピュータールームには実習用のパソコンがならんでいるユニークな船だった。
岸壁の帆船の中には写真等で見たことがあるのもあれば全く知らない船もある。散歩をしながら夕日に浮かぶ帆船のシルエットを眺めているだけでも、ぼくは十分に楽しかった。
二十二日、夕方。デッキでおわかれパーティーが行なわれた。下船まで日はあるが、アムスに着いたら時間をつくれないということでこの日になった。ホットプレートをデッキに持ち出しての焼肉を皮切りに、ワッチごとの出し物、トップボード(マストの真ん中にある足場)からみんなに訴えたいことを叫ぶトップボードからの主張コーナーなどが続き、盛り沢山の楽しいパーティーになった。
最後に音楽同好会から歌の発表があった。この日のために航海中からコーラスの練習を重ねていたのだ。曲は「カントリーロード」の替え歌で「大西洋」。船が大西洋を走っているときにぼくが作詞した歌だ。
「大西洋」
風のなか声ひびく
見知らぬ海帆を上げてく
初めての夏 つかまえに
夢の扉を ぼくはひらく
大西洋 この海 ずっと ゆけば
いつまでも 旅は続く 気がする
大西洋
虹のアーチ くぐって
イルカと走る ぼくらの夏
夕陽の色に 染められた
きらめく海に みとれてた
大西洋 この海 ずっと ゆけば
いつまでも 旅してゆける 気がした
大西洋
秋はいつか やってくるだろう
街にぼくらは 帰るだろう
それぞれの時間 流れていっても
忘れない この夏
大西洋 この海 ずっと ゆけば
いつまでも旅してゆける 気がした
大西洋
ぼくらの 航海
ぼくらの この夏
歌声を聞きながら、ぼくは泣きだしそうだった。いい歳をしてみっともないというのは分かっているけど。何度航海を経験しても旅の終わりに慣れることはできない。旅の仲間全員がもう一度そろうことは、多分二度とない。
終わらない旅が、終わらない物語がありえないなんて当たり前のことだ。それでもぼくはいつまでも続く旅を、エンドマークの出てこない物語を手に入れたいと思っていた。旅は終わりがあるから楽しいんだとしたり顔でつぶやいてみても気分が晴れることはない。
「それぞれの時間 流れていっても 忘れない この夏」歌詞の中にぼくはそう書いた。
けれどぼくは知っていた。今までに何度も航海を経験してきたぼくには分かっていた。
現実に戻り現実の時間に身を委ねる中で、ぼくたちは何かを忘れていくだろうと。
感動は気づかないほどゆっくりと色褪せてゆき、何に泣き、笑い、心動かしたのかさえやがてあいまいになっていく。本当の旅は霧の向こうに霞んで消える。途切れることない波の音も、北欧の乾いた風の肌触りも、夕焼けの色も、空の青さも、全ては手のひらから砂粒がこぼれおちるように失われていく。後にはただ、何かに感動したという想いや守れなかった約束や掴めなかった夢や、そんな切ない記憶だけがひっそりと残される。
忘れたくない。薄暗いデッキに明るく浮かぶみんなを見ながらぼくはそう思った。忘れたくない。ぼくは心の中でそう叫んでいた。
<おしまいの場所アムステルダム>
そしてパレードは穏やかに進んでいた。
下草を踏み分けて森の小道を進むみたいに、群がるボートやヨットをかきわけながらぼくたちの船はゆっくりと運河を進んでいった。
よく晴れた気持ちのいい朝だった。
ぶつかりそうな近くまで大きな遊覧船が寄ってきたかと思うと、老夫婦二人だけが乗ったかわいい小さなボートが悠然と追い抜いていったりもした。きれいな木目のクラシックなヨットが浮かんでいる。大混雑のにぎやかな運河なのに、それが当たり前のことみたいにのんびりとして見えたのは晴れ渡った素晴らしい天気のせいだったのだろうか。
トレーニーたちは思い思いにこのぜいたくな時間を味わっていた。マストの上から土手の人垣に手を振る者。へさきの先端で運河を吹きわたる風に身をさらす者。おそらく、生涯二度と経験できないだろう貴重な時間を、ぼくたちはそれぞれ存分に楽しんでいた。
十四時。「あこがれ」は無事、アムステルダムに到着した。パレードは終了した。
運河の尽きる所、旅の終着点。アムステルダムの街は五年に一度の帆船祭りに人で溢れかえっていた。
到着した日の夕食後、自由行動になった。
街で買物。他の帆船を見にいく。ビールを飲みにいく。みんなが三々五々街に消えていく中、ぼくは船に残った。
操舵室の屋根に登ると通ってきた運河が目の前に大きく広がっている。運河に沿った見えるかぎりの岸壁に大小様々の帆船が止まっている。運河には外国から帆船を見に、たくさんの遊覧艇がゆっくりと流れている。
大きさも見た目も様々のたくさんの船、ずっと眺めていても飽きないほどのいろいろな船がぼくの目の前を流れ過ぎていった。その中にはデッキに人を満載した、こっちと同じくらいの大きさの帆船すら何隻も混じっている。
それは夢の中の景色みたいだった。
レンガ造りの街を背景に運河を埋める無数の船。所々に帆船のマストが高く伸びるのが目立つ。たどりつくのがこんな夢のような所だと、航海の前には思ってもみなかった。
カナダでもアイマウデンでもたくさんの帆船をこの眼で見た。けれどこの街の景色は今までのものとはどこかが違っていた。
ここでは帆船は生きていた。
絵や写真とは違う。博物館の中庭や係留された岸壁で見せ物になっているのとも違う。この街で帆船はごく当り前に呼吸をし、力に満ち、そして実際に水面を走っていた。
今の世の中ではただ珍しいだけのものである帆船に、はるか昔、帆船が普通に航海していた時代のような力を与えられる何かがこの街にはある。そんな気がした。
決して飾り物ではない、時代遅れでもない、当り前に動いている帆船。
生まれて初めて、本当に本物の生きた帆船を見ることができた。ぼくにはそう思えた。
それはおそらくこの街にこうしてやってこなければ感じることができなかった感覚だろう。この瞬間、自分がここに、この街に包まれていられることを、ぼくは心の底からうれしく思った。夕陽に照らされた街を、ぼくは飽きることなくいつまでも眺め続けていた。
翌日、レース参加船のクルーによる市内パレードと客船ターミナルでの表彰式が行なわれた。パレードでは日の丸を掲げ「ワッショイ」の掛け声とともに街を練り歩いた。表彰式では「母港が最も遠い船」という賞をもらった。まあ「よく来たで賞」といったところか。ちなみに副賞でもらったのは地球儀。なかなかにシャレがきいている。
この日で、予定されていた公式行事は全て終了した。翌、二十六日午前九時。デッキで下船式が行なわれた。船長から一人一人に終了証書が手渡される。航海距離3406マイル。うち帆走距離3081マイル。
そして長かったその夏は本当に終わった。
<エピローグそしてプロローグ>
今、ぼくは兵庫県の芦屋市にある海技大学という学校の学生寮でこの文章を綴っている。
日本に戻って、ぼくは航海士の資格をとるための通信教育を受け始めた。そして三週間の面接授業を受けにここにやって来ている。
別に仕事をやめて船関係の仕事につくつもりはない。今の仕事もぼくは大好きだから。ただ船や海のことをもっと深く、系統だって知りたい。そのために勉強を始めた。
ぼくは自分の人生に究極の目標をみつけた。
それは外国に渡り、セイルトレーニングシップのクルーになることだ。もちろん、この夢がかなう可能性は限りなくゼロに近い。それにこいつは必ずしも実現できなくても構わない、そんな種類の夢だと思う。
それでも、遠い夢に向かって、ぼくは小さな一歩を踏み出そうと思う。
今、ぼくは一つの物語を生き始めた。それは自分自身が主人公の本当の意味でのぼくだけの物語だ。
それはぼくがようやく自分自身の人生を引き受ける覚悟ができたということかもしれないし、夢と現実とを区別できなくなってしまったということかもしれない。
夢が現実に追いついたのか、現実が夢を飲み込んだのか。いずれにしても、夢を見ながらでも現実に負けずに生きていくだけのしたたかさをぼくは身につけたのかもしれない。
ぼくは自分の人生をめいっぱい楽しもうと思う。目標に向かって少しずつ歩いていくことを。そしてあちこちに道草することも。
現実に負けることも夢に振り回されることもないように。自分の歩幅にあったペースで、ぼくはのんびり陽気に歩いていきたい。