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第1章 横須賀市の都市づくり・景観づくりの概要
1 横須賀市の歩み
 横須賀市の歩みとして、横須賀市の沿革、総合計画にみる都市づくりへの取り組み、文化・景観行政での取り組みについてとりまとめる。
(1) 概要
 遺跡などに見られる横須賀市の開発の歴史は古く、市内深田台にある平塚貝塚からは、約7000年前の人骨・土器などが出土している。
 古代には既に三浦半島に幹線道路が通っていたことは、「日本書紀」「古事記」にみられるヤマトタケルノミコトの東征伝承からも伺うことができる。この古東海道といわれる交通路は、現在の横須賀市域中央部を横断して、久里浜・走水あたりから房総へと渡海したものであり、久里浜周辺が、水上交通上の重要な位置を占めていたことが伺える。
 その後江戸時代に入るまで、横須賀市を含む三浦半島は、三浦氏による支配の時代が長く続くが、当時の横須賀は、海浜部の漁村集落と台地部の農村集落が並存していたと考えられる。
 江戸末期には、開国のあらしの中で浦賀港、久里浜が脚光をあび、慶応元年(1865年)、江戸幕府により軍艦の建造・修理の施設として、横須賀村(現在の本町一帯)に「横須賀製鉄所」が設立され、以後横須賀は、平凡な漁村・農村集落から急激に変貌を遂げていくことになる。
 製鉄所はその後明治政府に引継がれ、明治4年(1871年)、「横須賀造船所」と改名される。明治17年(1884年)、横須賀鎮守府が置かれると、横須賀の地は首都東京を守る位置にあることから、軍港としての地位を確立し、海軍を中心とする施設が次々と設けられるとともに、明治21年(1888年)に軍の要請による横須賀線が開通すると、軍都として急速に拡大していく。
 その間、明治9年(1876年)に横須賀村が横須賀町となり、明治40年(1907年)には横須賀町と豊島町が合併し、横須賀市となる(横浜市についで県内2番目)。
 昭和20年(1945年)8月、太平洋戦争は終結を迎え、横須賀市は軍港都市としての立市の基盤を失ったが、旧軍施設の平和産業への転換を図っていった。昭和25年(1950年)、「旧軍港市転換法」が制定施行されると、平和産業港湾都市としての新生横須賀の再建に向かって本格的に歩み始めることになる。この年、逗子町が横須賀市から独立分離し、現在の横須賀市となった(次頁図表参照)。
 その後、昭和59年(1984年)には三浦半島を貫く高速道路(横浜横須賀道路)が開通したのをはじめ、各種の基盤整備が進み、現在では人口40万人を超える都市に発展をとげ、平成13年(2001年)には中核市に移行するに至っている。
図表1-1 市域の変遷
年月日 事項 面積 (km2) 市域面積 (km2)
明治40年(1907年) 2月15日 市制施行 12.93 12.93
昭和 8年(1933年) 2月15日 三浦郡衣笠村を合併 11.32 24.26
昭和 8年(1933年) 4月 1日   〃 田浦町  〃 10.01 34.26
昭和12年(1937年) 4月 1日   〃 久里浜村 〃 7.54 41.8
昭和18年(1943年) 4月 1日   〃 浦賀町  〃 13.74  
  〃 逗子町  〃 17.14  
  〃 北下浦町 〃 9.79  
  〃 長井町  〃 3.7  
  〃 武山村  〃 8.62  
  〃 大楠町  〃 14.71 109.5
昭和25年(1950年) 7月 1日 現逗子市が分離 17.14 96.06
(注) 面積は合併又は分離当時における当該町村面積である。昭和18年(1943年)までの市域面積には埋め立て面積は含まれていない。
資料:横須賀市「横須賀市統計書 平成12年度版」(平成13年3月)より作成
図表1-2 市域拡大の軌跡
図表1-3 現在の横須賀市
(拡大画面: 343 KB)
資料:国土地理院「1:25,000地形図」(平成12年3月)より作成
(2) 総合計画にみる都市づくり
 終戦後の「旧軍港市転換法」(昭和25年)の制定以降、本市は旧軍用施設の産業施設への転換等により、産業開発を重視する平和産業港湾都市の建設を市是としてまちづくりを進めてきた。
 その後、地方自治法改正(昭和44年)により議会議決された基本構想では、新たに安全、快適、健康、利便等の文化の指標が加わり、以後自然を生かした都市環境の実現が都市像の中心に掲げられるようになった。
 現行の都市基本構想(平成9年3月策定)では、従来の平和産業港湾都市形成の精神をふまえ、新しい都市像を「国際海の手文化都市」とし、「共生」「交流」「創造」を基本的な考え方としてまちづくりを進めている。
 平成22年度を計画目標年次とした基本計画では、「都市の知的創造性を高める」「都市の感受性を豊かにする」「都市のゆとりを生み出す」ことをまちづくりの基本戦略をとして掲げ、平成13〜15年度に実施する主要なプランとしてまちづくり戦略プランを策定している。まちづくり戦略プランでは、「知的創造環境」「海と緑と文化の回遊」「まちと産業の活性化」「人と自然にやさしいまちづくり」「充実のライフステージ」等の5つの分野で重点プロジェクトが設定されており、本調査研究テーマに関わる分野では、「海と緑と文化の回遊」が挙げられる。三浦半島の三方に拡がる海と緑の豊かな自然、文化資産を貴重な資源として活用しながら、それぞれの特性を生かした拠点配置を行い、「三浦半島ぐるり一周プロムナード」などで結び、回遊と自然、文化に接することのできる交流都市を目指すものである。
 具体的には、市民の憩いや交流の場としての公園整備を行う「ヴェルニー公園整備事業」、「長井海の手公園整備事業」や、東京湾唯一の自然島である猿島を海と緑の自然を活用し、歴史や景観にも配慮した公園整備を行う「(仮称)猿島公園整備事業」、JR横須賀駅から平成町、馬堀海岸を経て観音崎まで5つの公園を含んだ約10kmを海沿いの遊歩道で結ぶ「10,000メートルプロムナード整備事業」、「美術館建設整備事業」などがある。
図表1-4 横須賀市の総合計画
(拡大画面: 223 KB)
(3) 文化・景観行政
 横須賀市の文化、景観に対する行政での取り組みについてとりまとめる。
 
ア 文化行政の取り組み
 横須賀市は、昭和57年(1982年)に市制施行75周年を記念して、「文化の元年」を宣言した。これに先立ち市では、文化の問題についてどのような行政姿勢でどのような取組みをなすべきかを横須賀市都市政策審議会に詰問し、これを受けて同年10月に「新しい横須賀文化の創造を目指して」が答申された。この答申の中で、文化元年2大プロジェクトとして、「海と緑の10,000mプロムナード」の構想と、「横須賀市民文化財団」の設立が提案されている。また、その後も各種の文化事業が引き続き進められている。
 
(ア) 海と緑の10,000mプロムナード基本計画(昭和59年12月策定)
 緑と花に包まれ潮の香り漂う、憩いの空間の創出を目指し、JR横須賀駅から観音崎公園までの約10kmの区間を、三つのテーマの四つのブロックに分け、遊歩道で結ぼうとするもので、昭和59年(1984年)12月に基本計画が策定された。
 
<プロムナード整備の三つのテーマ>
[新しいシンボル]:「国際海の手文化都市」横須賀市民のシンボル
            市民と行政が一体となってつくりあげる
[文化の道]:周辺に点在するさまざまな文化的資源を掘り起こしネットワークする道
        文化資源を生かし、人々が多様な文化活動を行う「屋根のない文化施設」
[人間の道]:人々が憩い、遊び、集い、出会う場
        車の心配なく楽しめる道
 
<プロムナードの四つのブロック>
[1] 歴史とショッピングの道 (JR横須賀駅・林秋公園〜三笠公園)
[2] 緑とスポーツの道 (三笠公園〜うみかぜ公園〜海辺つり公園)
[3] 海辺の散歩道 (海辺つり公園〜大津港〜馬堀海岸)
[4] 海と遊ぶ道 (走水海岸〜観音崎公園)
 
<プロムナードの整備状況(平成11年度末)>
基本計画延長:12,300m
整備済み区間延長:6,670m
 
<プロムナード整備の経過>
昭和59年 (1984年) 11月 海と緑の10,000mプロムナード基本計画策定
昭和62年 (1987年) 4月 モデル区間として三笠公園開園、三笠公園通り開通
平成 4年 (1992年) 3月 観音崎のボードウォーク整備完了
平成 4年 4月 ショッパーズプラザ横須賀オープン
(内部に24時間通行可能なルート設定)
      〃 海辺つり公園開園
平成 6年 (1994年)  3月 安浦埋立地沿道緑地整備完了
平成 8年 (1996年) 12月 うみかぜ公園開園
平成 9年 (1997年)  3月 新港緑地(臨港道路の歩道) 改良整備完了 
      〃 横須賀停車場線
写真1-1 海と緑の10,000mプロムナード
資料:横須賀市港湾部「横須賀港」








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