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担任は、いくつかのカウンセラーや病院を勧めて下さいました。

巡り歩いた相談室や病院では「本人が来なければ」「子どもの気持ちを受け入れなさい」と言われますが、具体的なことは言われませんでした。

新聞やテレビで見ていた不登校やパニックを、自分の子が行うなどは考えてもいませんでしたからショックでした。親も誇りに思っていた学校に合格したのにと思うと、彼自身悔しさで胸を引き裂かれる思いでしょう。夫は明るく弟に冗談を言ったり、私にも親切にするのですが、その振舞はむしろ夫の悔しさの強さを感じさせました。だれもいないところで、私は隠れて泣きました。

近所の人たちは、パニックになった時の音や声、外に出ない彼の行動などですでに知っているはずです。笑顔であいさつはしますが、近所の人と会うのがいちばん嫌いでした。知人からの慰めの電話は、本当につらいものでした。私が手伝う店の友人以外、だれにも相談しませんでした。私たちは本を何冊も読みました。

 

家族との会話が生まれる

夏休みが近づいた頃からか、私がテレビを見ていると彼がそばにいることに気づきました。荒れることも、親への暴力や暴言も少なくなっていました。でも外には出ようとしません。夏休みに入って学校が休みになったせいか、彼の行動はますます明るくなり、やさしくなりました。私や弟とテレビを見ながら、話や食事もできるようになりました。しかし、父とは顔を合わせようとしません。父が帰ってくると、自分の部屋に閉じこもります。起床は昼近くで、夜遅くまで起きています。周りの気持ちを知っているはずなのに、彼は学校へ行こうとしません。この間、相談室や病院は「本人を連れてくる」ことを求めます。要求されることはよくわかりますが、しかし子どもは拒絶して動きません。私はそれを悩み苦しみました。

年も明け、終業式が過ぎ新しい学年になって、時間と共に元気になってきたと感じられるようになりました。2年目の夏休みの終わった頃は、母や弟だけでなく父親とも話をするようになっていました。話の端から、動き出そうとしているのが感じられました。

不登校になって1年半後、3年生の年齢になった頃でした。「学校やめようかな」と、彼が言いました。当時とは変わられていた担任に相談すると、研究集会で知ったという、石井子どもと文化研究所を紹介されました。子どもに話すと「この学年が終わる頃考える」と言いました。

 

私達がかかわってからの経過

高校を退学、大検の勉強を始める

彼の言葉や最近の行動を聞き、彼と会うことにしました。学校や勉強のことではなく、将来のことや自分のやりたいことをいっしょになって相談してくれる人がいるから会おうということで誘ってもらいました。場所や時間は、彼の好きなようにしてよいと伝えました。

私の思いと違って、その週のうちに母親と昼過ぎ来られました。彼はつばの長い帽子を深くかぶっていました。

 

 

 

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