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とにかく私は、人から外れていた。もちろん友達はいた。それでも何か、違和感を消し去ることができなかった。何かが違う。好きでもなく群れをなす人たち、わけもなくお互いを攻撃し合う人たち。馬鹿らしいと笑うよりは、どちらかというと彼等を嫌悪していた。そして悩んだ。人といっしょにいる意味、友達とはなんなのか。小学5年生の未熟な頭で答えなど出るはずもなく、納得できないまま、人とは距離を置いた。訳のわからない争いに巻き込まれるのはいやだった。

幸い、5年生の終わり頃には肥満も解消されていた。養護学校卒業となるのもあまり好ましくなかったこともあって、6年生からは東京に戻ることになった。

 

強い違和感と不登校

東京の学校に戻った私は、浦島太郎の気分だった。1年半という時間は、多くのものを変えてしまっていた。きっと私も変わっていたのだと思う。小学6年生の時ほど、自分の周囲のものに違和感を感じたことはない。何かが違う。何かがおかしい。ここに、本当に私の居場所があるのか。

その頃から、私の体調がおかしくなった。いつもだるく、頭痛もした。初めはそんなことを理由に、欠席、遅刻を繰り返した。そうしているうちに休む日が多くなり、結局卒業式も出席しなかった。その後、なにくわぬ顔で中学校に通ったが10日も続かず、中学3年になるまで、何をするわけでもなく過ごした。

しかし、逃れることのできない現実が近づいてくる、それがその時の気分だった。そして、母の勧めでひとりのおじさんに会った。T先生だった。特に何があったわけでもない。それでも私は、K教室に通うことを決めた。

ひとつには、あせりがあったのだと思う。中学校を卒業した後の自分はどうなるのか。高校に行きたいという思いよりは、とにかく中卒でいることがいやだった。単位制高校を2度受験し、2度とも落ちた後、通信制高校に入学した。なぜこの高校にしたのか、と聞かれれば、母に勧められたからとしか答えようがないが、そこに全く私の意志がないわけでもない。私にとって良かったかどうかはわからないが、悪かったかどうかも、同時にわからない。すべては私自身がこの先どう生きていくか、それにかかっていると思う。

私は、中学3年間の分、人より遅れた部分があることは自覚している。その部分だけは、どうやっても取り戻せない。しかし、それを後悔したことは一度もない。それは私にとって必要な期間だったと、今私は確かに言うことができるのだから。

 

 

 

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