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森 山の手と下町が、まざり込んでいるとは思います。

 

陣内 中国の先生を案内したところ、すごく喜んでいました。貴重な価値があると思います。

 

森 鎌倉とか京都の三年坂ですと、風致地区とか、伝統建築物という文化庁の指定を受けられるのですが、ここは多分、できない。住民の利害や意識が多様ですから。

 

青木 音羽とか、目白通りの辺りが好きなんです。早稲田に行く通りに坂があって、雑司ヶ谷におりると護国寺がある。あの辺の一帯、高田老松町に僕を非常にかわいがってくれたおばの家があった。今は目白台に変わった。

 

森 東大の分院がある辺りです。

 

陣内 『文学における原風景』を書いた奥野健男さんがあそこに住んでいた。1回自宅の周りに連れていってもらったのですが、あそこだけまだ原風景が残っている。坂を上っていって、すばらしい大木があって、ほこらがある。

 

青木 30年ぐらい前から、東京論を書きたいと思っていた。東京の幾つかのスポットを、自分なりに好きな場所があるので、30スポットほど選んで書こうと言って、そのままになっている。日暮里の駅からちょっと上がった谷中の墓地が大好きで、若いときはデートに使ったりした。30〜40年前ぐらいはひなびていた。人も来なかった。夕方になると鐘が鳴ったり、意外と気持ちよかったし、行きやすい。

 

森 デートには最適です。誰もこないから。

 

川本 暗がりも、お酒もある。

 

青木 では、川本さんにお話を伺いましょう。

 

〔東京を4つの空間から見る〕

 

川本 東京を語るときに、何をどう語っていいのか、ほんとうに難しい。あらゆることが語れることもあるのですが、今回は東京を4つの空間に分けて考えてみました。下町、山の手、郊外、盛り場です。世界の都市を全部知っているわけではありませんが、この4つの要素が組み合わさって、巨大な都市空間ができているのは、多分世界の都市の中でも珍しいのではないかと思います。

 

下町と山の手

 

近代の明治維新後の東京の話になりますが、最初の東京の区分というのは、下町と山の手でした。いまだになごりが残っている2つの区分で東京の町を見ていくと、いろいろわかることが多い。どこの町にも住宅街とダウンタウンという、2つの異なった区域があるのですが、東京ほどはっきり文化的、生活風俗的、歴史的に異なった下町と山の手という2つの空間が併存して、時には対立し合い、時には共存するという都市は世界の中でもかなり珍しいと感じます。

江戸時代の町から、下町と山の手に分かれていた。江戸時代は、山の手という言葉はなかったはずですが、隅田川を中心とした下町に町人が住むようになる。江戸時代は士農工商の時代ですから、職人や商人たちはここに集中的に住んでいた。江戸城を中心とした山の手、今の千代田、文京、港の各区に武士階級が住んでいき、お寺がたくさんつくられていく。先ほど港区の六本木、麻布には、お寺が多いという話がありましたが、江戸時代は、あの辺りが東京の外れだったわけです。東京の周辺地帯にはお寺がつくられているわけです。

明治時代になって、明治政府によって、江戸時代の区分けがかなり意識的に行われていく。下町は、職人、商人が相変わらず住み、東京に攻め上がってきた薩長土肥の明治政府のエリートたちは武家屋敷の跡の山の手のお屋敷に住むようになる。下町と山の手は、最初は単なる空間的な言葉だったのが、次第にそれに意味づけが加わってくる。下町は、よく言えば庶民的で、悪く言えば貧しい人たちが住む。山の手は、エリート階層が住む。明治以降つくられていく大学を見ても、ほとんどが山の手に集中している。現在でも下町には大学は一つもないということが起こっていきます。

東京の近代の歴史は、東京が西へ西へと発展していく歴史ですが、同時に、下町が切り捨てられていく時代だったと言えると思います。例えば、下町は、空間的には荒川と隅田川を中心として堀の多かった水の町です。

 

 

 

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