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そんななかで、和船と櫓は我が国の船技術を象徴するものであろう。櫓船は漁を中心に農耕にも海や河川で用いられてきた。古い文献や絵図に登場する舟は櫓を漕ぐ和船が多い。このように用途的には一般に櫓船が多用された。それにひきかえ、櫂などは祭礼時など特別の場合が多かった。しかし古代では櫂が一般に用いられた。櫓が用いられるのはずっと後で7世紀以降からである。なお、櫓も現在に見るような櫓腕と櫓下の二材をついだ形式の継ぎ櫓になるのは近世以後である。(櫂については5)●漕具の項参照)つまり、我が国の船競漕でも長崎や天草、奄美や沖縄、それに瀬戸内や熊野の一部を除いて櫓船競漕が広く分布していた。

大正期から昭和初期にかけて、漁船に動力船が導入されるようになり、それまで長く主流をなしてきた無動力船の存在意義が徐々に薄くなってきた。こうして七十数年が経過して櫓船の存在は希有な存在になっていった。当然、船競漕もこの時期にはほとんどが消滅していった。同時に木製の和船が減少し、徐々にプラスチック船に替わっていった。木製の櫓船が残存しているとすれば、伝統的な祭礼の維持・継承のため、神事専用船としているところがほとんどである。(かつては、祭礼の神事には漁船など個人所有舟がその役にあたっていた。神事船に選ばれることは神様の御加護があると信じられ、好んで神事船に選ばれることを望んだ)

しかし、今日にいたって事態はさらに急変し、継承されてきた地域も祭礼の内容の変更や合理化を余儀なくされ、ここ数年で消滅の危機に瀕しているところが多々ある。また長く続いていた祭礼がここ数年で消滅してしまったところもある。さらに祭礼は継承されても船競漕は消滅してしまったところも多々ある。こうした原因には、無動力船から動力船に変わっても小さい頃に体験した櫓さばきが可能な人が、これまで祭礼を支えてきたが、高齢化が進んだこと、加えてこれまで継承してきた若者が都会へ流出し、継承がますます困難になってきていることがあげられる。これでは祭礼の中核である船競漕が盛り上がるはずがない。

このような状況下にあって、我が国で営々と築かれてきた「海国日本」の伝統文化である船競漕の実態を把握することは意義深く急務であろう。今ならまだ、かつて舟を漕いだ高齢者に対して辛うじて聞き取り等によって、ある程度の状況把握が可能と思われる。そしてこれは今後も船競漕参加者が生存のうちにぜひ訪れて調査を確かなものにしなければならない。船競漕はそのときの船技術の最高レベルを競うものであった。よって単なる競技ではなかった。競漕の技術は明日からの生活に反映した。またこれは、船大工の技術の競い合いの場でもあった。したがって船競漕を通して船技術が進歩したといっても過言ではない。このように船競漕は人々の生活に大きな意味と価値をもっていた。

いずれにせよ、舟の存在、殊に無動力船の存在が忘れ去られようとしている。かつての海国日本を築いてきた船技術の消失は船文化の消滅にもつながる。近年、船競漕が町おこし等にて復活するところもある。しかしそれは伝統的技術とはかけ離れた単なる夏祭り行事として水や海の行事プログラム(レクリエーション)として実施されるものであり、伝統的な船技術の継承とはさほど関係ないものになっている。

 

 

 

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