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(歴史)

 

江戸時代の間門式運河『見沼通船堀』

〜江戸近郷の舟運(2)〜

 

谷弘

 

1. まえがき

閘門式運河というのは、パナマ運河に代表されるように堰(関)を設けて水をせき止め、水位調節を行う運河である。閘門とは、この堰のことで、堰と堰の間のスペースを閘室という。欧米には、古くからこの方式の運河は多い。私がオーストリアのウイーンに赴任した1992年には、ドナウ川とマイン川をつなぐ運河が完成し、ドナウ川からマイン川、ライン川を経由して北海と黒海の間が舟運で結ばれた。この連結は、200年に及ぶ長年の夢の計画で、トラックに押されて衰退しつつあるヨーロッパ河川水運ではあるが、マスコミにも大きく報じられた。私も在勤中、オーストリア国内のみならず、ドイツ、フランス、ハンガリーなどへのドライブの旅ごとに、運河と堰の仕組みを見るのを一つの楽しみにしていた。皇太子が英国留学中に研究しておられた英国の河川舟運も、この種運河に大きく依存している。英国の堰を持つ運河もなかなか風情があり、特に田園地帯のそれはたいへん魅力的である。

日本でも、近代土木工事が導入された明治以降には、臨海部を中心にいくつかこの種の運河が造られている。しかし、江戸時代以前には、日本の河川は急流が多いことと、土木工事の困難さから、内陸部にこのような運河が造られた例は少ないが、そのめずらしい例が見沼通船堀である。

今回も前回に引き続き、この見沼通船堀のほか、房総佐倉の船、佐原や栃木の河岸場など、江戸近郷の舟運を取り上げてみたい。

 

2. 見沼通船堀

(1) その成り立ち

JR武蔵野線の東浦和駅から東川口駅の間には、広々とした田圃が広がっている。これが、「見沼たんぼ」であるが、この見沼たんぼは、埼玉県の川口市、浦和市、大宮市の3市にまたがっており、武蔵野線沿線がその南の端となっている。その広さは芦ノ湖の2倍程で、1200ヘクタールある。この見沼たんぼの南縁になる東浦和駅の近くに「見沼通船堀」がある。これが、江戸時代の日本ではめずらしい閘門式の水門を持つ運河である。

この運河は、徳川幕府の命を受けて見沼新田の開発に当たった幕府勘定方井沢弥惣兵衛為永によって、享保16年(1731)に開かれたものである。見沼たんぼには、東西に二つの見沼代用水路があるが、見沼通船堀は、これら二つの用水路と、その中間にあって田んぼの余水の排水路として使われていた芝川をつなぐための水路である。(図1参照)

この通船堀の目的は、稲の収穫が終った後、村々から江戸へ年貢米を輸送する船を通すためのものである。東西の見沼代用水路と芝川の間の距離は、東縁路が約390m、西縁路が約654mあるが、それぞれの用水路と芝川の間に約三メートルの水位差があるため、通船堀の水位を調整して舟を通すために、東西とも二か所づつの閘門が設けられたものである。東西の見沼代用水路と芝川の間の距離は、東縁路が約390m、西縁路が約654mあるが、それぞれの用水路と芝川の間に約三メートルの水位差があるため、通船堀の水位を調整して舟を通すために、東西とも二か所づつの閘門が設けられたものである。

 

※ 日本原子力研究所技術参与

 

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図1 見沼通船堀周辺図

 

 

 

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