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江戸廻り船 計30隻

(内訳)

300俵積 1隻

200俵積 12隻

150俵積 6隻

100俵積 11隻

下取舟(50俵積) 22隻

小船 2隻

同じ資料の明治元年(1868)の「倉賀野河岸移出入荷物・船数取調書」によると、倉賀野河岸への出入り船数は、次の通りとなっており、船の運航が、その時々の地元の状況や経済の状況により、大きく変化することがわかる。

出帆船 366艘、入津船 774艘

 

(4) 現在の倉賀野宿・倉賀野河岸

倉賀野宿東の中仙道と例幣使街道との追分(分岐点)には、大きな常夜灯と閻魔堂が建っている。常夜灯は、文化11年(1814)製作のもので、高橋光賢という人が私財を投じ寄付を募って建てたと言う。また、堂前に残る道標には「従是右江戸道、左日光道」と書かれている。私が訪ねたときには、近所のご婦人が集まって草取りをしていた。それだけ、地元の人が大事にしているということであろう。

倉賀野宿の長さは11km、本陣、脇本陣の他に、天保14年には旅籠屋(はたごや)が32軒あったと云われている。しかし現在では、上州で二番目の宿場町であった倉賀野宿の面影は、旧国道17号沿いの脇本陣跡の建物にわずかに残っている程度である。脇本陣の建物は病院の隣にあり、病院の前には高札場も復元されているが、本陣の方は既に取り壊され、スーパーの駐車場になっている。ひっそりとした今の商店街からは、昔の華やかさは感じられない。

旧国道17号を挟んでJR倉賀野駅の反対側に、利根川の支流である烏川に面して倉賀野河岸があった。(写真3)今は何の変哲も無い川べりであるが、烏川に架かる栄橋の袂を少し下りた所に、「倉賀野河岸跡』の碑と「由来記』が残されている。これらの碑は、なかなか立派なものであったが、橋の影になっており、橋の付近には何の案内もないことから、よほど興味のる人以外は、なかなか気付かないであろう。付近の人にいろいろ聞いてみたが、倉賀野宿のことは多少知っている人でも、倉賀野河岸のことについては、ほとんど知られていないことに驚いた。河川舟運もはるか昔のことと言うことであろうか。

 

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写真3 烏川の倉賀野河岸跡

 

 

 

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