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絵で見る日本船史<268>

天山丸(てんざんまる)

 

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戦前の昭和十二年当時、日本の商船隊の中で最も速い船は鉄道省所属、国鉄の関釜連絡船金剛丸で、二三・二節の記録を誇って居たが太平洋航路に就航の豪華客船でも最高速力二二節の時代であった。

金剛丸の姉妹船として誕生した興安丸も二三・一節を記録し、両船は二一節の航海速力で下関釜山間を七時間で走破、夜十時出港し翌朝五時に入港の船中一泊夜行便として顧客の好評を博していた。

元来国鉄の連絡船は鉄道省の指導のもと、発着時刻の正確さ厳守を至上命令として、天候の如何(イカン)に拘(カカワ)らず調整可能な運航を実施し、大正時代に建造の旧型姉妹船景福丸級三隻の八時間定期運航船と五隻で順調な時刻表が組まれていた。

昭和六年勃発の満州事変に始まり同十二年七月、日中戦争に突入して中国大陸に於ける戦火拡大の影響で、関釜連絡船の利用者は軍官民を問わず著(イチジル)しく増加、鉄道省では十五年半ばに至り新造船計画を立て、金剛丸級の改良拡大型を三菱長崎造船所に発注した。

基本設計と要目等は金剛丸級と殆ど同じだが、全長は約九米長く、総屯数は八三〇屯増加、船客定員約三百名の増となり二千名を越え、十一月十九日三菱長崎造船第八八〇番船として起工された。

翌十六年八月八日に進水し天山丸と命名され、完成迄に一年余りを要したが、太平洋戦争開戦の為軍用関係船優先となり、天山丸の艤装工事が遅れたと伝えられる。

鋼製貨客船天山丸は総屯数七九〇六で主機はタービン二機二軸、出力一六九〇〇馬力で試運転速力二三・二六節を記録、全長一四三・三米、幅一八・二、深さ一〇、船客定員一等六〇、二等三四二、三等一六四六、合計二〇四八名の設備で金剛丸級より三〇二名多く逆に、載貨重量屯は二二二三屯となり約千屯減少の登録となった。

天山丸の竣工は戦時中とはいえ客室や、食堂、喫煙室等の公室類及び貴賓室設備等は勿論、居住区冷暖房設備、揚貨装置、船内安全設備、更に航海計器類に至るまで金剛丸級に劣らぬ設備の船として完成したが、船体、檣、煙突等は総て戦時色といわれた鼠(ネズミ)色一色に塗装され味気ないものであった。

昭和十七年九月十日竣工後下関に回航し、同年九月二十七日関釜連絡定期船として就航、金剛丸を上回る高速力を出したが、続いて半年後の昭和十八年三月三十日に完成の第二船崑崙(コンロン)丸は、更に記録を書き替え二三・四五節を出して日本商船の中で最高速船となった。

崑崙丸も完成後の四月十二日に下関から釜山向け処女航海に就き、両船就航で徳寿丸と昌慶丸が新規開設された博多・釜山航路に移り残る五隻で関釜線運航を確保した。

崑崙丸は就航半年後の十月四日夜行便で午後十時五分釜山向けの船客六五五名を乗せ出港したが、その頃は既に対馬海峡にも米潜が出没し、厳重な警戒態勢のもとに高速力で航行中、翌五日午前一時十五分沖の島灯台の東北約十浬の地点で、米潜ワーフー号の雷撃を受けて沈没、太平洋戦争中の鉄道連絡船の犠牲第一号となり乗客、乗組員計五八三名が犠牲となった。

崑崙丸喪失後関釜航路は益々多忙を極めたが二〇年四月以降日本の各港湾は、米軍投下の磁気機雷で封鎖され関門海峡一帯は完全な凍結状態で、遂に六月二十日運輸省は四〇年の歴史ある関釜連絡線に終止符を打ち、天山丸と興安丸は舞鶴元山航路に配置替となった。

続いて日本近海一円は米軍機動部隊の跳梁で、艦載機による熾烈な空爆が繰り返される中を、天山丸は命により島根県隠岐(オキノ)島に退避航海の途中、米軍戦闘機八機の爆撃で機関室に命中大破炎上し、二日後の七月三十日未明、日御碕(ヒノミサキ)灯台の北方十四浬の地点で沈没し、建造後僅か二年十か月余の、短い生涯を閉じた。

松井邦夫(関東マリンサービス(株) 相談役)

 

 

 

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