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第二節 近世以降の日野の町家

 

さらに苅谷勇雅の論文『都市景観の形成と保全に関する研究』で取り上げられている明治18年の「建家明細取調書」における30の平面と山蔵から当時の民家とまちなみをみていく。(図5-7)

明治18年の日野は宝暦のまちなみより各戸の規模が全体に大きくなり、居室数も増加しているi。各戸が通りに面して前栽を持ち、主屋は少し奥に下がるのは従来通りであるが、前栽を囲む塀は板塀か真壁造の土塀であり、その塀はオクノマ前面だけでなく、通りに面する全面をおおうものが多くより閉鎖性を強めている。門口の脇に小室を設ける手法も多用されるようになり、居室に使用される他、土蔵、モノ入レ、井戸屋など様々に変化しているが、中には「ヤキモノヤ」となっているものも見られる。各室の構成については宝暦時代と大差なく四室以上の住戸ではやはり田の字型つまり整形四間取を基本にしている。

このように日野の民家は近世中頃に様式の萌芽を見、近世末から近代初めにかけほぼ一定の形つまり現在の日野のまちなみを形成している形に定着したといえる。

 

5-2-1 日野の民家の既往研究

以下苅谷勇雅の論文『都市景観の形成と保全に関する研究』の中で取り上げられている、正野玄三家、西田礼三家、岡喜三郎家、中井源左衛門家についてまとめておく。

 

1) 正野玄三家(明治14年ii)

当家は大窪越川町で本町通に面し、敷地は南向きである。日野町の一般的な民家に比べ大規模な民家であるが、本研究の調査対象地区内に建ち、日野の本町通の景観に大きな影響を与えていることから、ここで取り上げる。正野家は元禄の頃に日野で初めて合薬の製造に成功し、日野商人に格好の商品を提供し、日野商人の中でも特に富裕な者の一人となった。他の日野商人と異なるのは、出店を持つほかに日野にも店を構えていたことである。そのため当家は店舗部分を持った日野では特殊な本宅となっている。

敷地は表間口が12丈8尺5寸、奥行14丈余とかなり広い。表通りに面してザシキにつながる「門口」と「店門口」の二つの入口があり、店の前面は格子、他は塀となっている。門口を入ると1間半幅の式台があり、その奥に8畳の次の間、3畳の床の間付きという豪華なザシキが続いている。このザシキは広い庭に面している。

店舗部分は土間をはさみ両側にミセの間が並ぶ。店舗部分を通り抜けると居室部で奥向きの玄関が設けられている。

 

i 宝暦6年は3、4室が多く、平均は3.5室だが、明治18年には平均4.8室となっている。(苅谷勇雅『都市景観の形成と保全に関する研究』p.43)

ii 明治14年(1881)平面図 正野家蔵(苅谷勇雅『都市景観の形成と保全に関する研究』p.45)

 

 

 

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