日本財団 図書館


第3章 日野の建物と住まい方

 

3-1 既存建物調査

 

今まで日野地区では、各種の建物調査が行われている。ここでは、奈良女子大学増井研究室の調査結果をまとめるものとする。

 

第一節 日野の町家の変遷

 

苅谷勇雅は論文『都市景観の形成と保全に関する研究』において、日野を事例の一つとして取り上げている。その中では、宝暦の大火の前後のそれぞれの民家について考察し、宝暦の大火による町家や、まちなみの変化を明らかにしている。また明治18年の清水町における「建家明細取調書」と地籍図から、当時の町家の平面を考察している。明治14年の正野玄三家の平面図より当時の様子を、また中井源左衛門家の平面の変遷を明らかにしている。さらに昭和47年には村井新町の西田礼三家、清水町の岡喜三郎家、越川町の正野玄三家の実測調査を行い、日野の歴史的まちなみを構成する民家の特色について考察を行っている。これらの調査結果より日野の町家の成立過程についての考察を行っている。

現在、日野におけるまちなみの景観を構成する民家はほとんどすべて宝暦以降のものである。というのは宝暦6年(1756)に日野町は大火に見舞われ、町域の大部分が焼けてしまったためである。この時の焼失家屋は表屋だけで1059軒、寺9ヶ寺、焼蔵200、総棟数は8〜9000だったという。すさまじい大火であったというが、この記録は同時にその頃の日野の盛んな町勢をよく示している。

 

5-1-1 宝暦の大火による日野の民家の変化

当時東方で出店を出し、酒造業を営んでいた山中兵右衛門祐元は宝暦の大火の直後に出店のある御殿場から急ぎ帰り、「日野町方大火絵図」や「当時宝暦六年子十二月十八日焼失前此町之絵図」、また宝暦大火以前のまちなみや家屋の様子を書き記した「宝暦六子十二月十八日大変前ノ図」なども残しているi。よってその宝暦6年頃の村井仕手町まちなみを描いた「当町宝暦六子十二月十八日大変前此町之絵図」から当時の様子について述べることにする。

まちなみの特色としては、まず通りに面したすべての家が塀や垣などを持っていることがあげられる。この垣は主屋のザシキ部分を覆い、その間は前栽になっていた。主屋が通りより後退した配置は大火以降も継承され、天明8年(1788)に日野を訪れた司馬江漢は『江漢西遊日記』の中で「さて、日野という処に至るに、此処は家並びてあれども前は正木の生垣にして少し引き込みて見世の様子あり」と日野のまちなみについて述べている。

 

i 苅谷勇雅 「日野の近世民家とまちなみ」『都市景観の形成と保全に関する研究』学位論文 1993年

 

 

 

前ページ   目次へ   次ページ

 






日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION