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第2章 日野をひもとく

 

2-1 日野の歴史

 

その昔、日野町域は「ひもの(檜物の庄)」と呼ばれ、また古代「日野牧」が設置されたことが、町名の由来と伝えられています。11世紀にはすでに日野牧が成立しており、後に摂関家領、平安時代には京都祇園社・延暦寺・日野家・京都大聖寺を領主とする庄園になっています。これらの庄官として勢力を伸ばしていったのが後の日野の町づくりの中核となった蒲生氏です。

蒲生氏は小御門城、のち音羽城を本城としましたが、大永3年(1523)廃城となり、大永7年(1527)蒲生高郷氏から家督を継いだが蒲生定秀が中野城(日野城)を築き、現在の日野の中心市街地は、天文年間(1532〜1554)初頭に町割をしたことが発祥です。その後蒲生氏郷によって、天正10年(1582)頃完成されたと考えられています。当時は、日野市が催され、また鞍や鉄砲の製造で知られたまちでした。その後、蒲生氏郷が松阪、会津へと転封され、その時商人も引き連れていったことから、まちは一時衰退しました。

江戸時代に入ると、仁正寺(西大路)藩市橋氏一万八千石の陣屋が置かれ、まちは商人の町(在郷町)として発展しました。この頃から、日野商人が日野椀や売薬の行商をしながら全国に進出していき、以後、まちは日野商人の名で知られることとなります。出店は、遠く群馬、栃木、茨城等で数多くの出店がなされましたが、本家は日野に置き、綿向神社の祭礼(日野祭り)には帰郷し、本宅で客の接待にあたるというのが常でした。したがって、日野地区には、町屋というより多くの豪壮な本宅が残り、特徴ある古い町並みの風情を今も伝えています。

明治維新を迎え、明治4年の廃藩置県で町域は大津県に属し、その後滋賀県に改称、明治21年には、日野町と桜谷村・西大路村・北比都佐村・南比都佐村・鎌掛村の1町5村が成立。同27年に桜谷村は東桜谷村、西桜谷村に分立し、この状況が続いたのち、昭和30年3月この1町6村が合併し、現在の日野町が誕生しました。

 

蒲生氏郷の生涯

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