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エッセイ

 

アヴァンギャルドの精神

勅使河原宏

 

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Photo : Francis Jiacobetti

 

代表的な日本の美の体現者として、私は千利休に少なからぬ関心を抱いてきた。

利休は権威や常識的な価値観から自由になって、露地をつくり、建物をつくり、庭をつくり、さまざまな道具のデザインをした。お茶を喫むというただそれだけのことを軸にして、人と人とが心のいちばん深いところで通いあえるための仕掛けをし、演出した。それは、高度に洗練された知的な遊びだったともいえる。

それをもてなしの心といいかえてもいい。利休のつくったものには、あたたかさがある。きびしいのだがあたたかい。きびしいだけで寒々としているものとは、まったく違うのだ。

利休の茶室には、本当に細かい部分にまで、作者の精神、美意識というものが浸透している。利休は現場に張りついて作業のなりゆきを見まもり、指示したにちがいないのだ。利休のディレクションは、ほとんど手づくりの感覚に近いものだったろう。待庵の壁にしても、塗っている途中で下地のワラが見えて、それが造形としておもしろいと感じたのですぐに取り入れたものにちがいない。既成の価値観にとらわれず、自分の感覚に沿って形を求めていったのである。そしてできあがったのが小さな小さな空間である。しかし利休はその小さな空間を、人間の心を大きく開放するための装置にしたのである。

寄りつきがあり、待合いがあり、庭があり、茶室がある。そこをワンステップずつ進むことによって、日常性とはかけ離れた抽象空間ないしは小宇宙に導かれていく。大事な点はそれが表層的な社交の場ではなく、濃厚な精神性をもった聖なる時間と空間を共有する遊びの場だったということである。利休だけがそういう場を自在に仕立てることが出来た。強靱な意思の産物だったと思う。そこでは文化も政治もひとつになっていた。既成の価値観の中では高価な器物も、強大な権力者も意味をなさなかった。途中まで随伴者だった秀吉は、利休が展開する、モノでもなく空間でもなく精神なのだという演出に、ある時点からついていけなくなった。利休の切腹の下地はそういうところにあると私は考えている。利休には自分の茶の湯のスタイルを撤回することなど考えられなかった。妥協しようにもする方法がないのだった。

利休が今に示しているのは、文化の力のすごさということである。彼は、権力が好むあからさまに目に見えるものに依拠した価値観ではなく、精神的な価値観をモノに託して時代の前面に出した。それは多様性をもって広がっていった。それは小さな空間で見事に開花した。

私は、このように強靱な精神で、文化に対侍する利休の姿勢に深い共感を覚える。(てしがはら・ひろし:草月流家元/映画監督)

『日本のこころ〈天の巻〉』(講談社刊)より

 

 

 

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