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エッセイ

 

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北京のよき友

立松和平

 

人の日常的な生活感情や、微妙な心の壁、感情のゆらぎなどをリアルに描くのに、文学ほどふさわしいジャンルはない。だが文学はもっぱら言葉を使うので、国境を越える場合には必ず言葉が壁となる。文学をつくっている自らの肉体が、他者とのコミュニケーションを疎外してしまうのである。

そこにいくと、音楽はいい、美術もいい。人の精神の中にまっすぐはいっていき、翻訳などの手段をとることもなく、本来の力を発揮することができる。そんなことをいつも考えながら、私は言葉の壁を越えつつ異国の作家たちと交流してきた。ことにアジア人同士の場合、顔立ちも物腰もそっくりなのに、どうしてこの人と語り合えないのだろうと不思議になる。この人の精神の底をのぞいてみたいものだという気になるのである。

小説家の陳建功とはじめてあったのは、1986年日本の青年二千人が中国政府に招かれた北京でだった。各種の団体が代表を送り込み、私は日中文化交流会の代表団の一員であった。その30人ほどの団体には、中国人のしかるべき人が世話係としてついた。

陳建功は俳句の団の世話係をして、荷物などを運んでいた。聞けば、中国の若い世代を代表する作家ということだ。鍛えた肉体をしていて、労働者の国の小説家らしい武骨な印象だった。日本で同じように小説を書いている私に、彼も興味を持ったようだ。団体は違うのだが同じ日程で行動し、同じホテルにも泊まるので、夜になればお互いの部屋を訪問して時間も忘れて語り合ったのであった。その時にこの男の作品を読みたいと私は思い、彼も同じことを考えていたようだ。官房で乾盃ばかりしているのが交流ではないと思ったのである。

帰ると、私はふさわしい人を頼んで彼の作品を翻訳してもらい、私が関係していた雑誌に発表した。彼は文化大革命の時代、紅衛兵であった。北京郊外の炭坑に下放し、労働者として働いた。両親が大学教授で出身階級が悪く、より苛酷な労働の現場にいったのである。懸命に働いて汗に濡れた作業着を脱いでかけておくと、冬はたちまち凍る。朝は板のように固く凍った作業着をまた着て働きにいくのであった。

彼の中には歴史が色濃く詰まっていた。私もまた同様である。作品を読み合うことから、やっと交流の一歩がはじまったのだ。外見の第一印象からくらべれば、彼の作家としての存在をよく知ったといえる。それからもまた何度か作品の翻訳をしあった。

くぐり抜けてきた歴史も、現在置かれた環境も、まったく違う。その違いの中から、突きつめていけばいくほど同質のものにゆきあたる。それを発見するたび嬉しかった。知れば知るほど、違いはなくなる。東京を遥かに海を隔てた北京で、彼は時代ということでは私とまったく同じ条件で小説を書いていたのである。それからしばらく後、北京の安酒場で火のでるような安酒を飲みながら、彼はこんなことをいった。「1970年というテーマで、北京、東京、マニラ、バンコク、ニューデリー、パリ、ロンドン、ニューヨーク、世界中の作家が競作をしたらおもしろいだろうな。それを翻訳して、世界中で同時に刊行する」

さすがに大陸の作家は雄大なる発想をする。中国や日本で、私たちは何度会ったかわからない。暮らし向きなどもよくなり、私は彼を通して中国社会の変化を知る。彼は中国作家協会の書記になった。世間的には出世したということなのだが、彼自身はまったく何も変わっていない。

先日も、私が中国雲南省にいくと、彼は昆明まで会いにきてくれた。そこでさっそく対談になり、その記録は東京新聞に載った。彼と言葉が通じないのは相変わらずだが、かけがえのないよき友である。

(たてまつ・わへい:作家)

 

 

 

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