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被害者支援への長い道程

(社団法人被害者支援都民センター設立に寄せて)

 

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被害者支援都民センター理事長

日本被害者学会理事長

国際犯罪学会副会長

中央大学総合政策学部教授

宮澤浩一

 

我が国に「被害者学」が紹介されたのは、昭和三十三(一九五八)年のことであるから、既に四十年以上が経過した。一九五六年と五八年に、ベンジャミン・メンデルソーンが発表した論文『生物・心理・社会学の新しい分野 被害者学』の邦訳(中田修訳)によってである。日本の社会学者にとって、欧米の「新知識」が発表されて二年も経(た)たないうちにそれを入手し、それに取り組んだ経験は、当時としては、恐らく初めてのことではなかろうか。

邦訳を契機として、科学警察研究所、法務総合研究所等の実務家が、日本のデータを駆使して、犯罪学研究に被害者の視点を加味した研究成果を次々に発表した。一九六〇年代の我が国の被害者学的研究の水準は、質量ともに国際的水準を抜きん出ていたと言っても過言ではない。

被害者学の学問的な検討とほぼ同じころ、イギリスで「犯罪被害者への国費による補償」の問題が提起され、やがて、英語圏諸国で「被害者補償制度」が現実化した。六〇年代に犯罪が多発し、市民生活を脅かす事態となったためである。七〇年代に入ると、ヨーロッパ大陸諸国でも、「被害者補償制度」が次々に実現した。ヨーロッパ大陸でも犯罪が社会問題化したからである。そして八〇年代に、アジアでも「被害者補償制度」の導入が図られるようになった。先鞭(せんべん)をつけたのが日本の「犯罪被害者等給付金支給法」(一九八〇年)であり、韓国(一九八七年)、台湾(一九九八年)がこれに続いた。被害者支援の第一の柱である。

 

■経済的支援から精神的被害への支援へ

欧米では、被害者への経済的支援に次いで、その精神・心理的な面への配慮を現実問題として取り上げ、それを具体化した「被害者支援」への関心が高まった。その背景は、「被害者補償」の場合と同様な社会状況が現出したためである。

被害者問題に大きな進展が見られるようになった背景事情として、一九七三年八月にエルサレムで第一回国際被害者学シンポジウムが開催され、その後、三年毎(ごと)に、世界の各地で開催され、「犯罪被害者」についての共通認識を広めたことを挙げ得る。七九年には、「世界被害者学会(WSV)」が設立され、その後の会合の開催母体の一翼を担うこととなった。第四回のシンポジウムは、東京と京都で開催された。国際被害者学シンポジウムにとって記念すべき第十回大会が、本年八月初旬に、カナダのモントリオールで開催される。

被害者支援にとって一つの転機となったのは、第二回ボストン大会で「第二次被害者化とその対策」の問題が提起されたことである。犯罪被害者が、刑事司法過程において、犯人による攻撃に加えて、精神的に傷つくという深刻な問題がそれである。特に、性犯罪の被害者が、警察の事情聴取、検察庁での告訴の意志の確認、裁判所の公開の法廷での証人尋問で、被告人や弁護人の執拗(しつよう)な反対尋問により、その尊厳を害されるという深刻な問題を直視し、早急に適切な対策を取るべきであるという批判が起こり、その後、そのトラウマの除去、第二次被害者化の回避の問題が検討された。

この問題に関して、実は、六〇年代の半ばごろ、アメリカやカナダの大都市で、被害者支援の民間組織が活発な活動を始めていた。七〇年代後半には、ヨーロッパ諸国でも、被害者支援の市民組織が活発な活動を始めた(第二の柱)。各国とも、犯罪、特に悪質な人身犯罪の多発が見られるようになったためである。

このような民間組織に関係の深かった世界被害者学会の中心的なメンバーは、各種の国際組織への働きかけを強めた。その成果は、八五年にイタリアのミラノで開催された第七回国連犯罪防止会議での「犯罪と権力濫用の被害者に関する司法の基本原則宣言」の採択、同年十一月の国連総会での同趣旨の原則の採択に結実した。八七年には、ヨーロッパ評議会が、被害者の法的地位に関する加盟各国の法の整備を求める勧告を出した。

 

 

 

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