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体験記

「リハビリは楽しく」

岩佐瑛子(LPクリニク維持会員)

 

たまたまLPCの看護士さんのIさんにお目に掛かった折に「最近いかがですか」と聞かれました。「いろいろな体操をしておりまして、とても調子がようございます。筋力を鍛えて素敵になろうという本を書きたいくらいです」と申しますと、「是非それでリハビリの体験談を書くように」とすすめられました。私は何を隠そう日本人の三大死因といわれている癌、脳出血を体験して、残るは心臓病だけという豪の者でございます。今回は私のリハビリ体験ということで、脳出血のその前後のことをご紹介いたします。

 

右半身麻痺からリハビリへ

発病いたしましたのは7年前の暮で、その半年ほど前から時折、激しい頭痛に襲われておりました。そこで、近所の脳外科医に診察していただきますと、「何でもない更年期でしょう」ということで、お薬をいただきながら過ごしておりました。運の悪いことに、私の胃癌を見つけてくださって、以来ずっと診てくださっていたLPCのM先生が米国で研修中でした。

師走の忙しいある日の午後、突然右手がフワンと効かなくなり、夕方医院に行った時には、既に右肩から下はすべてまったく動かなくなっておりました。しかしその段階でも、「お昼寝をして手の上に乗って痺れたのではないか」と診断されました。忙しい暮に主婦がそんな呑気にしているわけもなく、でもあの時本当にお昼寝をしていて、先生の言葉を否定できなかったらと考えると今でもゾッとします。後に主人が「翌朝すぐにLPCに電話で相談し、適切な指示をいただけたからよかったけれど、そうでなければもっと大変なことになっていたと思うよ」と申しておりました。近いからなどと簡単に病院を選んではいけないとつくづく思いました。

結果的には先天性脳動脈瘤破裂ということで、12月25日のクリスマスに、F市民病院で手術をしていただきました。長時間の上に動脈瘤がかならず摘出できる保証もない手術でしたが、B先生のおかげで無事成功いたしました。先生が名医でいらっしゃると思ったのは、頭の切り跡がすっきりと仕上がっていて、髪の毛がきれいに生えて来た時です。なじみの美容師さんからも「仕事柄お客様の手術跡をたまに見ることがありますが、随分上手な先生ですね」といわれました。手術後は口はきけましたが、右半身の麻痺で唇の右は少し痺れおりました。先生は「たぶん歩けるようにはなると思いますが、右手はあきらめてください」といわれました。

頭は丸坊主、右半身麻痺、じっと天井を見上げていると、「ああ、もっと好きなことをやっておけばよかった。主人、主人の両親、私の両親、二人の子供達、ペットの犬と猫のことなど、仕事が山程あって、自分が何をしたいかなどあまり考えずに生きてしまったなあ、これから少し何かしたいと思っていた矢先だったのに」などと何となく、愚痴めいた気にもなりました。でも方このままでは嫌!絶対に何でも一人で出来るようになろう。歩けるようになって好きなオシャレをして、コンサートや美術館に行こう。「きっと出来る」と確信めいた気持ちもございました。

でも現実の私は、車イスに乗せられ相変わらず腕も肩から先がピクリとも動きません。毎回ご回診の先生から「少しでいいから肩を動かしてごらんなさい」といわれても、まるで念力で他の物を移動させなさいと命じられたように、まったく何をどうしたら腕を動かせるのか分からなくなっておりました。ナースになった娘から「ママ、十分右手で働いたから神様が少しお休みなさいっておっしゃったのよ、これからはゆっくり左手で暮らせばいいわ」と右手をあきらめやすいように慰められながらも、手が自由に動きホッとしたところで目が醒める、そんな夢を何度もみました。そんな折、日野原先生から「手を動かすイメージをもって、お腹の上から手を下にすべらせてごらんなさい」という伝言がありました。また叔母からは、イガ栗のような形の手にスッポリと入る小さなマッサージ器が贈られました。毎日それを握りながら、日野原先生のおっしゃる手が動くイメージを思い浮かべ、起きている時間の大半を過ごしました。何日かたつうちに、何も感じなかった手に何となく力が入るような気がして、握力も出てきたような気がしてまいりました。それを更に続けると、かすかに腕が動くようになったのです。付き添ってくれていた主人に「ホラ動くでしょう」と見せたのですが、本人が思うほどには動いているとは見えないらしく、気の毒そうに「ウンウン動いた動いた」とあまり信用していない様子でした。

 

 

 

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