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天からの贈り物

―第85回―

野村祐之

 

転んだ後の杖(つえ)

朝、食事を運んでいって父がベッド脇に倒れているのを発見したときには、まさかこんな大事になるとは思いもよりませんでした。

そうカーニーさんに伝えると、「アメリカでも高齢者によく起こる典型的なケースだわ」とのこと。

ナースとしての訪問看護の経験から、彼女は米国での高齢者のケガ、骨折にかかわる興味深い話を聞かせてくれました。

「高齢になると骨がもろくなり折れやすいので、ちょっとしたことですぐ骨折して大事にいたると考えられてきたけれど、最近の研究ではそうとばかりはいえない、というのよ。

大きな骨折をする以前に体をぶつけたり倒れたりしてすでに骨にひびが入っているケースが多いらしいの。それに気づかないまま、再びそこへ新たな荷重が加わると大きな複雑骨折を引き起こすというわけ。

もちろんこれを実証するのは難しいわ。だって骨にひびが入っているのにそのまま放置してどうなるか試すわけにはいかないでしょ。

だからあくまでも憶測の域を出ないけれど、わたしも経験上、骨格がしっかりしていて運動機能も勝れた人にも同じようなことが起こるので、骨の強さや筋力だけの問題じゃないはずだと以前から思っていたの。

若い人のばあいは、骨にひびの入るようなことでもあれば痛みと炎症でとても我慢できないはず。でも高齢になると痛みの感覚が鈍化し、炎症も軽程度で治まったりするのよ。

おまけにお年寄りは、日常、つまずいたりちょっと転んだりすることがよくあるもので、転倒して少しくらい痛くても我慢して、そのまま生活を続けてしまう場合が多いの。

それでも知らぬ間に治ってしまえば大事にいたらずにすむわけだけど、なにかの拍子で無理な力がかかったり、あるいは痛みをかばって無理な姿勢をとり、再び転倒したりすると深刻な事態を招きかねないわ。まさかこの程度でどうして、と思われる場合はたいていこのケースじゃないかしら。」

カーニーさんにいわれてみると、目からウロコ。じつは父にも思い当たる節があったのです。

自室で倒れて入院するとき愛用の杖も持っていこうと探したのですがいつもの場所に見当たりません。当のご本人にたずねると、じつは一週間ほど前になくしたといいます。

「なくした場所もわかってるんで取りに行こうと思いながら、歩くのに杖がないもんでついおっくうで」とのこと。近所のスーパーか本屋さんあたりではないかと思い、

「早くいってくれれば、すぐ探しにいってきてあげたのに」というのですが、もうひとつ要領を得ません。

よくよく聞きただすと近所ではなく、どうも吉祥寺にあるデパートでのことらしいのです。わが家から電車で10分程度とはいえ、ふだんは近くの散歩にさそっても腰が重くついつい出無精になっている父の行動範囲が吉祥寺にまで広がっていたというのはちょっとびっくり。最近の吉祥寺といえばすっかり若者の街に変身し、あの混雑ぶりや歩く人のペースを考えると、87歳の老人がふらつく足どりで杖をたよりに歩く姿は想像するだけで冷や汗ものです。でもそれは一週間前のことですから、とにかく無事に帰宅したわけです。

さて、ところで杖は吉祥寺のどこへ置いてきてしまったのでしょう。むりやり問いただす気はさらさらなく、うっかり置き忘れてきてしまったのならまた買い直せばいいだけのはなしです。でも父のうかぬ面持ちに、どこまで記憶にあるのか聞いてみたくなりました。

じつは、わが家でクリスマスの食事を一緒にしようといっていた前日のこと、孫の祐香へのプレゼントを探しにちょっと無理をして吉祥寺まで出たらしいのです。

そしてデパートのおもちゃ売り場で、走ってきた子供にぶつかったか何かで足をすべらせて転倒し、店の人に助けられて医務室のベッドでしばらく横になっていたようです。

しばらくしてすこし痛みが治まると明治生まれの硬骨漢としてはえらくばつが悪くなり、頃合いを見計らって勝手にとっとと帰って来てしまったらしいのです。

「杖を探したんだけど、ぶつかったときすっとばされたのか、どっかに持ってかれちゃったのか、見つからねえんだよ」とのこと。

この出来事の翌日、クリスマスの食事を一緒にしたときには、まさかそんなことがあった直後とは、まったく気づきませんでした。

入院の時、このことも担当の先生に伝えましたが、すでに一週間以上経過しているので、今回の骨折とは無関係との判断でした。

入院加療に約3週間ということでしたので、父の気分が楽になればと思い、僕は翌日、同形の杖を買って病院へ向かいました。

(つづく)

 

 

 

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