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教育医療

Health and Death Education Jul.2000 vol.26 No.7

 

呼吸と祈り

 

“てんにいます

おんちちうえをよびて

おんちちうえさま

おんちちうえさまととなえまつる

いずるいきによび

入りきたるいきによびたてまつる

われはみなをよぶばかりのものにてあり”

 

これはあの清純なキリスト教徒八木重吉の詩であります。八木重吉は肺結核のため29歳(昭和2年)で夭折したのですが、上掲の詩は彼が肺結核を発病する前年の詩なので、息苦しさを感ずる中での詩ではなかったといえます。

ところで、詩の中の“よぶ(呼ぶ)”という語は、発声につながりますので、生理学的には、呼息期(はく息の時)のものです。“いずるいきによび”はその点で正当です。しかし“入りきたるいきによび”は変ではないでしょうか。でも、この詩を読む限り私等は全く矛盾を感じないばかりか、この両者の“よび”は“おんちちうえをよび”をただ強めると感じられましょう。これが「詩と真実」ということなのだろうと私は思います。そして私はこの詩は、一念唱名の“祈り”と思っています。一念唱名というと、わが国では、法然の南無阿弥陀仏が最もよく知られています。

ノルウェイの神学者O.ハレスビーは『祈り』という本の中で次のように書いています。「遠い昔から祈りは霊の呼吸であるといわれてきました」「私共の霊が必要とする空気は、いつでもどこでも私共を包んでいます。神はキリストの中に豊かで完全な恵みをもって私共のまわりにどこにでもいましたもう」「呼吸するとき空気はいつでも静かに入り、肺の中でその正常な働きをするように、イエスも私共の心に入りその祝福の業をなさる」と。そしてさらに祈りの最も重要な心の態度の第一は“無力さ”であり、第二は“信仰”であるといっています。“無力さ”とは自我の放棄といってもよいでしょう。絶望の立場といってもよいでしょう。最大の謙虚さといってもよいでしょう。仏教的には無我でしょうか。坐禅に専心する場合、調身、調息、調心という三者が強調されるようですが、調息すなわち呼吸をととのえることが無我への基本条件の一つとなっていることに私はとくに関心を深めます。あの道元禅師の専心打坐の究極は祈りであると書いてあった本がありました。今になって私にも納得がいくように感じます。もっともハレスビーが祈りは霊の呼吸であるという時の霊とはキリスト教的な意味での霊であって慎重に理解する必要があります。それは霊的存在としての自己を維持するのは祈りであるということ、つまり祈りは呼吸が人の生命を維持するのに不可欠でありながら、しかもそれは無意識の間にも与えられている恵みなのだということではないでしょうか。

世界保健機関(WHO)の健康の定義に、身体的、精神的、社会的に良好な状態であることに、新たにスピリチュアル(霊的)にもそうであることが加えられようとしています。ギリシア語のプノイマは風であり、霊であり、呼吸(息)なのですが、呼吸がこのように、祈りに通じ、自然や、無限の宇宙や、永遠の希望にも還元されるものと感ずる道をいまの医学でも捨てたくはないと私は思うのです。

ピースハウス病院最高顧問 岡安大仁

 

 

 

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