日本財団 図書館


Seminar

2月のセミナーから

ソーシャルケアフォーラム

 

スピリチュアルペインと向き合うケア

 

去る2月22日、日本でも医療や福祉の現場で課題となってきたスピリチュアルペインをとり上げ、セミナーを開催いたしました。野村祐之先生には神学者の立場から、丸屋真也先生には臨床心理的な関わりから、そして日野原重明理事長には豊富な臨床経験をもとにご講演いただきました。本セミナーの概要をご紹介いたします。

 

輝ける命と終末の意味

野村祐之

(神学者・青山学院大学講師)

スピリチュアルという言葉はもともとキリスト教用語で「霊的」といった意味ですが、「霊」というと日本ではなにかおどろおどろしく暗いイメージを伴い、なかなか本来の意味が伝わりにくい事情があります。

そこでまず原点にたち返って、キリスト教の人間観においてスピリットとは何なのかを見てみます。

YMCA(キリスト教青年会)のロゴマーク(下図)がキリスト教的人間観を象徴的に表していて理解に役立ちます。

 

006-1.gif

 

真ん中の逆三角形に注目してください。右下の辺にはBODY(身体性、からだ)、左下の辺にはMIND(知性、あたま)と書かれています。そしてこの二つをつないでいちばん上の辺にはSPIRIT(霊性、こころ)とあります。

人間は体を持ち、知的な存在ですが、人を本当に人間たらしめているもの、それはスピリットだというわけです。

聖書の創世記には「主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息(スピリット)を吹き入れられた」とあります。人を活かすスピリットは神の息、神の霊そのものなのです。人は誰でもいちばん深いところに神の霊を宿している。それゆえ人は誰でも限りなく貴い存在なのです。

次に、ペイン(痛み)について考えてみましょう。肉体の痛みならずスピリットに痛みを感じるとき、人は魂を揺さぶられ、危機的状況に追い込まれます。

ペインの語源は罰に通じています。痛みはきっと何か悪いことをした罪に違いないと誰もが考えてみるでしょう。

ところが聖書は、痛みに深い意味をみいだします。痛みを通して人は自分を再発見し、神と人が結ばれ、人と人とが深くつながりあうというのです。

確かに人は痛みを経験すると、神に向き合って真剣に祈ります。

人は苦しみによって自分の弱さと限界とを思い知らされ、自分はいったい何ものなのか、何が自分の人生にとって本当に大切なものなのか反省させられます。

また、ひとりさみしく辛く悩みの底にあるとき、共に苦しみ、悲しみを分かち合ってくれる真の友との出会いを経験することがあります。

痛みが、神と自己と友との関わりの中でしっかりと受け止められるとき、人は癒され、新たに生きる力を得、深い命の輝きに包まれた自分を発見します。そんなとき、こころに疼きをたたえつつも、母胎に抱かれた赤ちゃんのような安らぎを得、自己も死もすべてが相対化され、おおいなる慰めのうちに解放されるのではないでしようか。

 

スピリチュアルペインと援助者の姿勢

丸屋真也

(臨床心理学博士・LPC心理相談室長)

まず、「臨床心理的な側面からとらえたスピリチュアルペインとは、自己充足の破綻からくる痛みや苦しみ」だと規定します。

人には本質的に限界があります。子供はこの限界を痛みを経験することで、自立の範囲がどの程度なのかを学習していきます。人はこの経過をたどらないと、偽りの万能感の中で充足し、正しい自立ができません。これは、1]責任の伴わない自由(借金、ギャンブル等)、2]自己過信(仕事中毒等)、3]個人主義(他者との関わりを避ける等)などといった形で現れます。

この自己充足的な生活は、一定期間続いても、病気、人間関係、経済面、社会的要因などを契機に破綻がきます。

 

 

 

前ページ   目次へ   次ページ

 






日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION