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青函連絡船のすべて

本州と北海道の架け橋として時代とともに歩んできました

 

1908年〜1925年

流行語も生みだした船の進化

 

北海道開拓事業が本格化した1900年代はじめ。北海道鉄道と日本鉄道は1日2往復の直通列車を走らせていましたが、函館〜青森間の連絡船は1日1往復で、港で積み残しの荷物や人びとが夜を明かす姿が目立ってきました。これを解決するために生まれたのが、青函連絡船なのです。

 

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比羅夫丸

 

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田村丸

 

●新しくて早くて快適なタービン船

鉄道連絡船の使命は、列車の発着時刻にあわせた定時運航。嵐や濃霧、冬には吹雪、そして潮流の変化もある津軽海峡で、それを実現するには高性能の客船が欠かせません。当時、上野〜青森間の路線(後の東北本線)を走らせていた日本鉄道会社は、明治39年(1906)、2隻の客船をイギリス・スコットランドの造船所に発注したのです。変動の激しい時代の中で、小樽〜函館間を走る北海道鉄道会社線も日本鉄道会社も国鉄に吸収され、建造中の2隻も国有化されました。わが国初のタービン船は発注から2年後に就航。東北に縁のある歴史上の人物、阿部比羅夫と坂上田村麻呂にちなんで比羅夫(ひらふ)丸、田村(たむら)丸と名付けられました。乗り心地が静かなうえに、従来6時間の航海を4時間に短縮する速さに、両船は一躍人気者に。「タービン」は「新しい、速い」を意味する流行語にすらなったのです。函館市には「タービン洋服店」などの看板が次々と現れたといいます。

 

●船の中をレールが走る

ところが、当時の函館港、青森港には桟橋がなく、荷物の積み下ろしに膨大な時間がかかりました。加えて第1次大戦の軍需景気で輸送量は増大する一方。そこで次世代船舶として誕生したのが、船内にレールを敷いて列車を積み込む「客載車両渡船」だったのです。翔鳳(しょうほう)丸、津軽(つがる)丸I、松前(まつまえ)丸I、飛鸞(ひらん)丸のトップを切って、大正13年(1924)に完成した翔鳳丸は全長109.7メートル、約890人の乗客と25両連結の貨車を3線のレールに分けて積む蒸気タービン船。4船とも国内で造られたから、青函連絡船は日本の造船技術の向上にもおおいに貢献したことになります。

ところで、大正12年(1923)8月16日に進水した飛鸞丸は、関東大震災に遭遇。輸入したばかりのタービン減速ギヤーがハシケもろとも沈没するというアクシデントに見舞われたために、完成が遅れたのです。時代の要請に応え、震災をくぐり抜けてきた連絡船は、こうして大正14年(1925)、岸壁の航送設備の完成とともに就航。片道4時間半、客貨便3往復、貨物便1往復の計4回、海峡を運航し続けました。

 

 

 

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