六十四校をいっせいにつくりますが、そのときの授業科目には心学があるのです。先ほどの明倫舎を母体にしてできたのが番組小学校の明倫小学校ですが、その校名は明倫舎から採っています。それから小谷さんのご関係の修正舎が嘉楽小学校になり、後に嘉楽中学校になります。時習舎は有隣小学校になります。
ところが最初は心学を教えていたのですが、心学の教師は次第にクビを切られていきます。明倫舎などは父兄の方が頑張ってお金を出し合い、心学の先生を雇用しておられたのですが、国自体は心学を否定していきます。京都で番組小学校をつくれという建白をした中心人物は、西谷良圃(淇水)という人でして、慶応三年の建白文を見ますと「人の人たる道が学問の道だ」と主張しています。
このように、さすがに京都では心学の伝統が明治維新になっても残っていたのです。しかし大正、昭和になるとどんどん消えていきました。小学校の修身の教科書にいつまで梅岩が出てくるかを調べたところ、昭和八年までは梅岩は修身の教科書に絵入りで出ていますが、昭和九年からは消えます。学校教育からも梅岩先生の名前は消えていくというようになっていったのです。
では、なぜ心学が日本の近代化の過程で衰退していったのかということについて、ベラー先生のお考えを承りたいと思います。