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解剖学実習

立見知子

 

「解剖実習」、念願の医学部に入り希望に燃えていた四月、学生要項中に此の四文字を見つけた私は、早くも逃げ出したい衝動に駆られた。血を見るのが恐ろしく、蛙の解剖すら二の足を踏む私(これでよく医師を目指したものだ)にできるのだろうか!? 勿論避けては通れないことは分かっていたが、まだ自分とは関係のない世界のように考えていたのだ。今から思えば、医師という職業の厳しさ、重大さを改めて感じたのはこの時が最初だったように思う。あれから一年数ヶ月、不安で一杯だった私は、今や解剖の魅力にとりつかれてしまった。生まれて初めて触れたご遺体は、冷たくて固く、最初の頃こそ気が滅入りがちだったが、講義中に登場した筋肉や血管を見つけるたび、私の心は好奇心に置き換わっていった。この神経はどこまで続いているのだろう?この動脈と一緒に走っている神経は何だろう?どこから枝分かれしどんな働きがあるのだろう?それはまるで新大陸を探検する気分だった。そんなある日、私は、隣の班のご遺体が結婚指輪をはめているのに気づいた。「もし今解剖しているのが家族や友人、恋人だったら、同じようにできるのだろうか」。教授の話によると「今回献体して下さった方々とは生前何度もお会いしており、顔見知り以上の間柄だ」という。もし自分の親しい人が目の前に横たわっていたら、私は果たして落ち着いて解剖・分析ができるだろうか。

 

 

 

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