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クックは基準線を天文観測によって設定、沿岸地形は数カ所から交差する観測で、距離は2隻の船の間で発砲の時間を測ることによって測定した。クックの2回目の航海からはクロノメータを使用し、従来の月距による経度測定と計器測定との誤差など、非天測位置推定法と天文学的位置決定との差違を調べ、潮汐及び海流調査を丹念に行うなど、クックの遺した海図と、その丹念な海図作成法はその後の海洋探検航行技法や測量技術の発展の新たな土台を築き、英国水路学に一時代を画した。クックの技法と業績はその後のNSR航行に活用された。

 

2.1.2 ノルデンショルドの航海以降ロシア革命まで

 

ノルデンショルドの航海

ヴェガ(Vega)号によりトロムセ(Tromso)を出港した後、氷海中で一年余りを費やしたスウェーデンのノルデンショルド(Adolf Erik Nordenskjold)教授は、1879年7月、ベーリング海を通航し、初めて北東航路完航に成功し、1879年9月、横浜港に入港した。ただし、ノルデンショルドの主たる意図は、欧州とアジアを結ぶ航路の啓開になく、後年“Kara Sea Route”と称される欧州とオビ・エニセイ(Ob・Yenisey)川域を結ぶ航路、更にはレナ(Lena)川周辺域と欧州を結ぶ商業航路の啓開にあった。

 

ジャネット号の悲劇

一方、合衆国建国の勢いに乗って、1879年ワシントン大統領の命を受けたデ・ロング(De Long)は、極域における新大陸の発見と極点到達の命を帯して、ベーリング海峡を通航して一路北極点を目指したが、北緯71度地点で厚い氷に阻まれた。デ・ロングの探査船ジャネット(Jeanette)号は、以後2年間西へ漂流し、ノボシビルスク(Novosibirskiye)諸島で難破した。この航海は、ウランゲル(Wrangel)島発見の成果を見たものの、乗組員33名中僅か13名のみがレナ川河口に辿り着くことができた悲惨な航海でもあった。難破船ジャネット号の木片が3年後グリーンランド東南部で発見されたことから、従来様々な憶測が交わされた極点周辺での新大陸の存在についてはようやく疑問視され、否定的見解が大勢を占めるようになった。

 

苦難の啓開史と砕氷船の建造

ノルデンショルドが主張した、カラ海ルートについては、この地域の豊富な資源に刺激され、1876年から1919年までの間、122回もの航海が記録に残されている。ただし、これらの航海の中、大方はノルデンショルドが思い描いたような実質的な商業航海ではなく、危険率が高く、成功率の低いものであった。1874年から1901年間で見ると、オビ・エニセイを目指した87回の航海の中、目的地に到達したのは60回であり、22回は目的地に到達せずして帰港、5隻が難破した。シベリアから欧州へ向かったものについては、42航海中36航海が欧州へ到達、6隻が難破している。また1901年から1910年の間は、商業航海は一例もない。

北極海航行を目的として設計建造された最初の砕氷船は、1898年マカロフ(Makarov)提督指揮の下、英国ニューキャッスル(Newcastle)で建造されたイェルマク(Yermak:長さ98m、排水量9,000トン、出力10,000馬力)である。その後、小型砕氷船タイミル(Taymyr)、バイガチ(Vaygach)の2隻が建造され、1894年設立された中央水路管理局(Central Hydrographic Administration)の水路調査活動を助け、1913年にはセヴェルナヤゼムリヤ(Severnaya Zemlya)を発見している。

 

 

 

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