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1496年のことである。ジョン・カボットの息子セバスチアン・カボット(Sebastian Cabot)は、恐らく父と北極の海の航海を共にしたものと思われるが、父親の意図を継承した。商才に恵まれたセバスチャンは、英国初期植民事業の立役者、ノーサンバーランド(Northumberland)公の協賛を得、ロンドン指折りの市民達の強力な支援を受けて、冒険商人による共同出資株式会社の設立を唱導、頭取として3隻からなる遠征隊を組織した。この遠征隊は、ウィロビー(Willoughby)卿を指揮者に迎えて1553年船出した。ウィロビー卿は、ノバヤゼムリヤ島(Novaya Zemlya)を発見したものの、ラップランドにおいて部下全員と共に凍死すると言う悲劇の主人公となった。ヤバスチャンは、1555年にはロンドンの商人と共に、貿易商社ムスコヴィ(Muscovy)社を創立、ロシアとの交易を促進した。セバスチアン・カボットが新航路啓開の夢を託した若き船長スティーブン・バロー(Stephen Burrough)は、小さなピネス、サーチ・スリフト(Search-thrlft)号により、ノルウェー北端、コラ(Kola)半島を回航、ノバヤゼムリャの南を航行してカラ(Kara)海に達し、シベリア沿岸東航の最初の成功者となった。

 

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航行障害となる難破船の焼却 (Pearsall, 1996)

 

アルハンゲリスク(Arkhangelsk)からの毛皮、木材資源を求めて、オランダは1578年ロシアとの交易を開始した。更に東への航路を求めたアムステルダムの商人達は、1594年当時テルチェリング(Terschelling)の船乗りとして令名を馳せたバレンツ(Willem Barents)に依頼、マーキュリアス(Mercurius)号による高緯度航路の可能性を探らせた。この時代にはまだ、海氷は陸地周辺のみに存在し極点周辺には広大な開水面があると信じられていたからである。バレンツの最初の航海では、ノバヤゼムリヤ西岸海域が詳細に探査されたものの、第二次航海同様、本来の目的を果たすことができなかった。1596年5月アムステルダムを出港した第三次航海では、ベアー(Bear)島及びスバルバード(Svalbard)を発見したが、海氷に航路を閉ざされて上陸を余儀なくされ、後、乗組員の大半はオランダへの帰国を果たしたがバレンツ自身は故国を見ることが叶わなかった。

英国の船長ヘンリー・ハドソン(Henry Hudson)は、ムスコヴィ社で経験を積み、1607年5月、80トンのホープウェル(Hopewell)号により北極海を越えて日本、中国に至る航路を求めて出港した。彼は、北緯73度まで北航し、グリーンランド東沿岸海域を探査、その後北緯81度を超えスバルバード西沿岸を探査した。この海域は、優れた鯨の漁場であるとのハドソンの報告により、数年を経ずして捕鯨業者の天国となった。1608年ハドソンの第二回航海では、極点周辺での開水域の存在を確かめ得る兆候は何一つ得られず、続いて1609年の航海では、オランダ東インド会社の支援を受けて再度北東航路を目指すものの風に恵まれず、針路を西へ変え一転北西航路啓開を目指した。

 

 

 

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