日本財団 図書館


奨励賞

 

「観光」の視点に関する考察

―浜寺公園の再生を例に―

 

073-1.gif

平岡憲人・佐藤泰子

 

要約

なぜ、国内観光旅行はつまらなくて、海外旅行はわくわくするのだろうか?バブル期前後に、多くの日本人が海外旅行に出、単なる異文化ではなく、観光地も観光地の周りも観光地への道もが調和した姿で自分の好奇心を刺激される心地よさを感じ、これを基準に、国内の「観光」は見るようになった。いま、日本で観光に行こうと思うと、その目標水準を妥協するか、さもなければ、観光にこれまでとは別の意味を与えるかのいずれかである。改めて、"ポスト・リゾート開発型"の新たな価値の模索が必要ではないか。

「観光旅行」のイメージは、「観光バスで団体行動する旅行」であり、そこには消費者(来訪者)が好奇心を満足しようにも、自己選択を発揮する機会が乏しい。一方で、見知らぬ景色との遭遇、旅先での出会い、ゆっくりとした時間の中で味わうその地の食べ物、におい、光、言葉。こういつた様々な体験によって日頃控えられていた好奇心が刺激され、気分がかわる。そしてまた日常へもどってゆく。これが「旅」である。この「旅」にあるのが、本来の「観光」体験なのではないか。本来「観光」とは、「移動の感覚を伴い、非日常を双方向・多数の感覚・知的チャンネルで体験し、好奇心を満足する」ものであると規定したい。すると、「ちょっと行ってみたくなる場所」が観光地であろうか。「観光旅行」は提供者側の論理が色濃く、「旅」は来訪者側の論理が色濃いとはいえないか。観光を考えるにあたっては、いったん提供者の論理を離れ、消費者(来訪者)の側にたって発想してみてはどうだろう。

元来観光は、もてなしのしかけ・演出に依っている。例として富山県利賀村では、村に至る山道が「日常から非日常への遷移空間」(アプローチ)として機能し、劇場の存在感や周辺環境などが「非日常を深めるしかけ・日常へもどさない仕掛け」(舞台)となり、その上で演劇そのもの(観光の核)を味わえた。その結果、東京の劇場とは全く異なる非日常的な演劇体験を濃厚に楽しむことができた。一方で、このようなしかけ・演出が、日々の経済活動などで崩壊し、観光の核だけが味気なく残って「スーパーのパック刺身」状態?になるのが、日本の観光地の病理である。

ほとんどの観光地において、観光の提供者(地域の人)と来訪者は、住む場所も日々の問題意識も異なり、結果として、どんなものをよいと感じる視点もセンスも異なっている。

 

 

 

前ページ   目次へ   次ページ

 






日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION