実録 小笠原母島漂着記 (2)
株式会社テトラ
顧間 浦川和男(うらかわかずお)
紀州潘口書
蜜柑(みかん)積船江戸へ
私(紀州名草郡藤代の商人長兵衛)こと、寛文九年十一月(一六六九年十二月下旬ころか)に紀州海士郡仁義村(和歌山県海草郡下津町)の太郎助という者の樒柑を、運賃請負で江戸へ運ぶことを約束し、阿波の渡河浦(徳島県海部郡海南市浅川浦か、阿州口書では浅川浦)の勘左衛門持船十一端帆船(約二百石積)を用船しました。
船頭はその勘左衛門、水主は同浦の安兵衛、弥作、彦之允(阿州口書では「彦之丞」)、庄九郎、三右衛門の五人、それに私、以上七人乗りまして、去冬(寛文九年)十一月二十六日(一六七〇年一月十七日)(阿州口書では「寛文九年十一月十五日」)、在田郡波須嶋河(和歌山県有田市箕島か)を出船しました。
遭難漂流
ところが、同年十二月六日(一月二十七日、勢州阿野理浦(三重県志摩郡阿児町安乗か)で大風に会いまして、荷物をはねましたが、沖合へと流されました。
そのうちに粮米が底を突きましたので、船中に少し残っていた樒柑を食べて飢えをしのいでおりまいたところ、青鱶(あおふか・青鮫と同義)一本が本船にまとわりついてきました。阿州の船頭勘左衛門や水主どもは青鱶漁法を心得ておりまして、着物の中綿を餌にして、その綿を喰いに掛かったところを大綱で括(くく)り揚げて、船内に引き揚げました。その後は、その鱶を食料としました。
無人島漂着
さて、二月二十日(四月九日)ごろ、本船は無人島へ流れ寄りました。陸へ上がってみますと、亀やいろいろの魚どもがたくさんにおりました。ひとまず島で求めた水を船へ運び込み、その後、亀や諸魚(鳥か)どもをさおや小石で灯殺し、それを食料としました。こうして、全員少しづつ体力がついてきたのですが、船頭の勘左衛門は食傷して相果てました。
小舟建造
元来この島には湊がございませんので、本船は破損してしまい、国元へ帰る手立てを失いました。そこで本船にありましたおのやのみなどを陸上げし、舟板を取り集めまして、二月の末(四月十八、九日か)より四月上旬(五月五、六日か)へかけて、素人細工に小舟を一艙造り建てました。
無人島から八丈島へ
小舟が完成した数日後に、この無人島を出船し、八日七夜、日和に恵まれて走りましたところ、一つの島が見えました。こぎ寄せてみますと、海岸に人が出て招いて下ります。その人の側にこぎ寄せ、「この島は何という島ですか」と尋ねましたら「ここは八丈島です」と答えてくれました。