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◎能地家船の寄留と移住◎

能地の家船の漁民は子供の頃から「藻が三本あれば、曳いて通れ、家が三軒あれば売って通れ」と寝物語に聞いて育ったという。その金言どおり、能地漁民は「魚は獲れるところまで追って」いったようだ。そして魚の多い海域で、魚を捌ける村や町があれば、その土地に一時的に寄留して漁をし、そのままそこに定住することも多かった。周防大島出身の民俗学者、宮本常一は、その著書『私の日本地図―周防大島』の中で、次のように述べている。「志佐は西向いの傾斜地に家を建て、元は海岸には集落がなかった。しかし目の前の海には魚が多かったので、安芸国の能地というところから漁師が来て漁業を営み、初めは漁期を過ぎると故郷へ帰っていたものが、いつか住みつくようになり、海岸集落が発生したという。」

農村の方では能地漁民は魚の供給者であり、乱暴や理にかなわぬ振る舞いさえせねば、能地漁民が住みついても、格別に問題にはしなかったのである。こうして自主的に住みついただけでなく、村の方から積極的に土地を提供し、住み着いてもらう例もあった。因島の西にある生口島瀬戸田の福田では、田畑の肥料としていれる糞尿をもらうという条件で、能地の漁民が住み着いている。漁浦に能地の漁民が住みつく例も多かった。能地漁民がとるエビやイカナゴが、延縄や一本釣りの漁の餌になったからである。ことに延縄では大量の餌を用いるために、能地漁民と延縄村の結びつきは深く、牛窓(岡山県)、詫間(香川県)、今治(愛媛県)などの大きな漁村に寄留、定住している。こうして能地漁民が寄留や分村した地域は、能地家船の先駆的かつ優れた研究者であった河岡武春氏によると、「東は和歌山県雑賀崎から西は大分県都留まで、瀬戸内海中で百ヵ所を超える」という。

 

◎消えていった家船◎

因島で出会った箱崎きくのさんは、このような家船による漁業経験をもった女性漁師であった。きくのさんが過ごしてきたような家船は、私が彼女に出会った昭和五十年にはすでに見られなくなっていた。そればかりでなく、瀬戸内海に百ヵ所以上の寄留地や枝村を出したほど、漁業の活力に溢れていた能地でさえ、今日では漁労に従うものは数軒と言われるまでに減っている。いわば瀬戸内の漁労自体が衰退していったのである。

家船の消滅にはいろんな理由があるが、子供の教育が義務化されたことが大きかったのであろう。家船の得意とした漁労は、いずれも海や魚についての細かい観察や知識が必要である。またそれを捕えるコツを身につけねばならぬ。家船の子供は船の中で親の仕事を見ながら育った。六、七歳のころから魚を釣り始めたという箱崎きくのさんはその例の一つである。そうして子供も必要な技術を身につけ、生きていくことができた。それが、学校に通うようになると、細やかな技術は覚えられなくなり、また陸に家をもつことが必要になる。そこで、まず年寄りが船を降り、陸に家を持って子供を預かり学校教育をうけさせるようになる。年寄りもおらず、陸に家を持てない家船漁民のためには、寄宿舎も用意された。尾道の吉和では昭和四年には、家船漁民の子供が寄宿する尾道学寮ができ、箱崎では昭和三年に湊学寮ができている。そしてそのようなところに子供を預けると、親も、もはや自由に長旅ができなくなる。瀬戸内の家船が減少してくるのは多分、この頃からであろうと推定できる。

 

 

 

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