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塩飽廻船の繁栄のあとを伝える塩飽本島笠島浦の町並み。

現在は伝統的建造物群保存地区に指定されている。

 

平和の到来とともに塩飽の卓越した水運力は、みずからもその開発に貢献した西廻り航路における城米輸送に転用されることになった。塩飽廻船の活発な輸送活動を裏付ける史料にはことかかないが、一六八七年(貞享四)の記録によると、島中で加子(水夫)に出る者の人数が三四六〇人で、そのうち、常時船方に出ている者が二二七三人、臨時に船方に出る者が一一八七人であったという。また一七〇八年(宝永五)には城米船が大小一〇一艘あり、その積載能力は四万二〇八○石であったという(真木信夫『瀬戸内海に於ける塩飽海賊史』)。こうして、塩飽は西廻り航路の開設後ほどなくして、一躍瀬戸内海における最大の船舶基地に成長していくのである。

塩飽の繁栄の理由については、さまざまなことが考えられる。まず第一に、中世以来の伝統のなかで培われてきたすぐれた航海技術を有していたこと、ついで第二に、堅牢な大型船を有していたこと、そして第三に、幕府の直雇い船としての特権があったことなどである。ところが、そのうち第三の点については、やがて状況がかわってくる。それは、幕府が一七二一年(享保六)に、越前の城米の江戸・大坂への廻米を江戸の廻船問屋に請け負わせることとし、従来の直雇い方式がくずれはじめるからである。これは、幕府直雇いの御用船としての特権に守られて水運活動を展開していた塩飽廻船にとっては、衰退の始まりを告げるものであった。

 

 

 

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