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神の心臓で鮫とヒスイ原石と一緒に焼かれ、鉱石+魚類+人間と一体に血脈となって、この神像の体内を巡り、内臓部分に至って聳え立つ四本の巨大木柱を上昇して、祖霊となっていったのであろう。この錬金術のような祖霊づくりの方法は驚きである。

この四本の杉の巨大木柱の外側を大形の石で方形に囲んだ四隅には四本の石棒が立っていた可能性がある(実際は三つの隅に四本立ち、一つの隅には欠けていたが)。この四本のファロスは一つ一つが巨大木柱と同質な意味をもち、その意味を生命的に強化して置かれて、死者の霊が精液の管を上昇する塔の役割を果たしたのであろう。

 

◎ヒスイ硬玉・鮫の母・渚の嬰児を結びつける神話文脈◎

飛び飛びの断片であるが、寺地遺跡の配石遺構の形態と遺物が語る要素をつなぎ合せていくと、日本列島に残影するある神話文脈がどうしようもなく浮かび上ってくる。1]海辺の渚に限りなく近く、砂丘面と沖積地の境界上に石を積んで描かれた神像は、海辺に置き去られた胎児、ないしは嬰児であること。2]その嬰児の神像は、鮫の神裔であるものの血をさずかっているごとく、進化史上の鮫の段階の胎児の形態を模し、また鮫人と想われる人物をその中で火葬していること。3]この嬰児は深海のエッセンスである緑色の魂を誘い込むような妖しい光を発する硬玉で身体ができていて、この硬玉は本当は山地を浸食する姫川の支流や、青海川によって運ばれたのであるが、想念上は海底の他界空間から人間界の海岸への贈り物のように、波によって打ち寄せられること。

(記紀神話の神代篇の部分と特に八ヶ岳山麓の中期縄文土器図像の文脈が主要な神々で一致しているので、記紀神話像の上限が縄文時代にあることの延長線上に立って寺地遣跡も考えることができたのであるが)

以上のようなこの寺地遺跡の性格内容からは、記紀神話にのこされている豊玉姫伝承が他の太母伝承と共に、まぎれもなく縄文時代に存在したということがなっとくされる。現在残っている記紀の豊玉姫神話からは、その神話伝承の担い手が寺地遺跡のようなヒスイ製品の加工者つまり玉作(たます)り集団であり、その世界像であったことは既に失われている。しかし、よくよくみると、山幸彦が、海宮を去るにあたって、海神の豊玉彦(紀の一書)よりさずかった水を自由にコントロールすることのできる玉、潮満(しおみ)つ瓊(に)・潮涸(しおひ)る瓊(に)(紀)あるいは塩盈(しおみ)つ珠(たま)・塩乾(しおふ)る珠(たま)(記)にヒスイ製品を想定することも可能だし、豊玉姫が最後に山幸との別離にうたう歌<赤玉は 緒さへ光れど、白玉の 君が装し 貴くありけり>も、何故かヒスイではないが赤玉や白玉をうたっていることも玉製品に関連するからではないかと疑いたくなる。このように豊玉姫神話伝承が原初的には玉作り集団に関係したものではなかったかという痕跡はまだ記紀神話にわずかに残されている。そこで玉作り集団の祖先神の名を探すと、忌部系などいくらかある中で「玉造部の遠祖・豊玉神」(紀の一書)があった。

つまり、豊玉姫やその父の豊玉彦の名前は海神だけでなく玉作り集団の祖先神の名前と同一だったのである。それらを考えあわせると現在いわれているように豊玉姫伝承の担い手は海人、特に隼人や安曇系といわれているが、記紀の時代には彼らの神話となっていたとしても始原的には海人の中でも玉作り集団の世界像であったことが、この縄文の遺構の性格と記紀に残されたその痕跡から照らし出されるのである。

(それでも、糸魚川地方のヒスイに関する玉姫はヌナカワ姫が厳然と居るではないか、といわれようが、この大国主と関連する玉姫は、縄文時代の伝承の忘れ去られた弥生時代、古墳時代の玉姫様の可能性をもっているのだろう。出曇大社境内の命主社遺跡の巨岩下から弥生時代の美しいヒスイ勾玉が出土している。)

この海岸近くに配石画像で描かれた胎児は、豊玉姫が八尋鰐になって「葡匐(は)ひ委蛇(もごよ)ひ」て生んだウガヤフキアエズの命(=ナギサ彦)であると同時に、胎齢四週目の魚期のエラのある怪獣の姿をした類的な母である豊玉姫自身の姿でもあったのである。この海岸線(寺地遺跡の背景には、あの親不知の断層崖が望まれるが)に横たわる胎児=鮫母の巨大配石画像の向うの富山湾の海底には、縄文人の想定した他界であり、そこから生命が誕生した源泉である海宮(わたつみ)が彼らの脳裡に描かれていたのであろう。

 

 

 

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