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武士居住区では、明治初期から後期頃まで、ほとんど民家が建設されていない。明治後期頃から徐々に建ち始め、その後は昭和初期にピークを迎え減少していっている。足軽居住区、町人居住区については、年代によって数にばらつきはあるものの、だいたい各年代で民家が建てられていることがわかる。両居住区とも、武士居住区と同じく、昭和初期にピークを迎え、後は徐々に減少している。

このことから、やはり、明治維新による、武士の没落による影響がここにもみられ、明治に入ってからしばらくは、武士居住区に民家が建たなかったと推測される。町人・足軽居住区では、城下町の経済の冷え込みにより、減少する要因はあったものの、恒常的に建てられていたことがわかる。

次に、図1-17の居住区ごとの構成比をみてもわかるように、明治初期から中期にかけて、町人居住区に建てられる民家の割合が全体の半分以上を占めていた。しかし、それ以降では、徐々に武家地の割合が増えてきているのがわかる。ここから、町人居住区では、明治から昭和にかけて増減はあるものの、だいたい毎年、民家が建てられており、武家地では、武士の没落からしばらくの時間を置いて、明治後期から徐々に民家が増えてきたことがわかる。

1-3-2-2 武士居住区の経年変化

図1-18は、各年代でみた武士居住区における建築種別の経年変化である。各年代を通して、全体的に戸数が少ない。明治元年では、塀付平屋、および、塀付2階建が多くみられる。しかし、翌年から急激に減少し、明治後期頃まではどの建築種別の民家も、あまり建てられていない。明治後期から大正にかけて、塀付2階建・町家・長屋の建設が増え始め、それに続いて塀付平屋も少しずつ建てられていく。昭和初期にすべての建築種別において、建設のピークを迎え、その後、減少していく。

全体の戸数が少ないことから、武士居住区にはあまり民家が建てられなかったことがわかる。また、塀付平屋よりも、町家や塀付2階建のほうが建っていることから、塀付平屋より住みやすい建築様式が、武士居住区に建っていったことが推測される。

1-3-2-3 足軽居住区の経年変化

図1-19は、各年代でみた足軽居住区における建築種別の経年変化である。図1-19において、明治元年においては、戸数が多くグラフが読みとりにくくなるため、省略することにした。明治元年の戸数は塀付平屋58戸、塀付2階建8戸、町家6戸、長屋3戸、その他0戸である。

比較的、塀付平屋が多く建っているとみられるが、昭和初期に新築されたと思われる塀付平屋は調査中あまり見受けられず、改装した塀付平屋が移かったので、台帳の記録の信憑性が疑わしい。

また、町家の建設が明治後期から増え始め、それと共に、長屋、塀付2階建も戸数を伸ばし、昭和初期にピークを迎えている。この変化は、武士居住区と似ているが、武士居住区より建設された戸数が多いことが、違うところである。

長屋の建築が多いのも、この居住区の特色である。足軽居住区に、長屋が多く建ったと考えられる。

1-3-2-4 町人居住区の経年変化

図1-20は各年代でみた、町人居住区における建築種別の変化である。図1-20において、明治元年においては戸数が多く、グラフが読み取りにくくなるため省略することにした。明治元年の戸数は塀付平屋0戸、塀付2階建3戸、町家156戸、長屋15戸、その他2戸である。

図からもわかるように、圧倒的に町家の建設が目立ち、他の建築種別がほとんどどの年代においても建っていないことがわかる。町家自体は、明治に入ってすぐと、明治後期にいったん減少のあるものの、恒常的に建設されている。大正に入ってから、長屋と塀付2階建が建てられたようだが、町家と比べると微々たるもので、この図からも、町人居住区には町家が、建てられていたことが示されている。

1-3-3 考察

現在、城下町彦根は城と共に城下町の町なみが残っている、国内でも珍しい所である。しかし、この城下町の中でも、民家や町なみがほぼ当時のまま残っている地域と、そうではない地域がある。

この章では、江戸時代から昭和にかけての民家の建築種別や、身分的居住区の移り変わりについてみていき、どのような経過を経て、現在の町並みになったかを考察する。

 

 

 

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