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断片的ながら、この一文は江戸末期の大村城下をよく伝えている。また図2-1は、英国の週刊誌『イラストレイテッド・ロンドンニュース』に掲載された、幕末の大村城下の町並みである。おそらく、長崎街道沿いの本町一帯の商家群と思われる。

 

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図2-1 幕末の大村城下の町並み

 

3. 軍都として再出発

 

城下町として栄えてきた大村にとり、明治4年(1871)の廃藩置県等により、大村藩が解体したことは大きな痛手であった。大村市の南部を流れる内田川を境として、かつてその大村城側(南側)は、武家屋敷町であり、その中でも内田川沿いの片町から川を越えた本町一帯は商業地域を形成し、江戸時代にはこの界隈が最も賑わったところである。

大村藩の消滅によって禄を失った旧武士たちは、自活の道を探さねばならなかった。生活に窮した旧武士の中には、住みなれた屋敷を離れ、藩政時代に与えられていた旧知行地に戻っていく者も多かった。やがて次第に旧武家屋敷には空家がめだち、それに伴って本町界隈の商家も寂しくなり、店をたたむ者さえ生じる有り様であった。

安政3年(1856)と明治17年(1884)との人口・戸数を比較すると、前者が2万1,662人・5,788戸であるのに対して、後者は1万9,299人・4,925戸と、時代の経過に逆行して、人口にして1,733人、戸数にして863戸減少しているのであるc

こうして大村藩の解体は、城下町大村にとり深刻な影を落とし、ことに明治25年ころには極に達した。

一方、この当時の日本の国情は、明治27・28年(1894・95)の日清戦争に勝利をおさめたものの、いわゆる三国干渉により、より強固な軍備拡大が迫られていた。実はこの国土防衛策が、大村におよぶこととなったのである。

 

 

 

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