フィリピン研修に参加して
鈴木 智子(大阪医科大学 4年)
現地研修に参加できた私は非常に幸運だった。東京での研修が始まったときにもそう感じたが、フィリピンで私はより一層そう感じざるを得なかった。
参加した学生は皆、意欲的であるだけではなく、よく勉強していたし、私たちへの講義を引き受けて下さった方々も学生に対して、という大変寛大な姿勢で話して下さったので色んな意味で非日常を送ることが出来たのだった。
色んなことを見聞きしたために消化できないまま、この文を書くのが心苦しいのだが、大きく言えば私が感じたことは観念的なことは2つであった。
1. 信じる人の強さ
これは何もフィリピンに住む人たちの多くがキリスト教徒だ、という意味ではない。事実多くの人がキリスト教徒であって、他の宗教の信者だというフィリピン人と接することが「偶然」出来なかったのだが、他の宗教の信者もいる。
私が感じたことは、彼らに触発されたことではあるが宗教だけのことではない。信じることはとてつもなく大きな力になる、ということだ。
私たちにお話をして下さったストリート・チルドレンを預かる方々や、町で暮らす人々を支えるキリスト教の他に、WHOで働く先生方の持っておられる理念、自らの仕事への意気込みなど、「強さ」に感動した。中でも尾身先生のお話は忘れられない。
私たちの行動も「信頼」しあうことで成り立つことを思えば、自分自身の行動を信じるということは大切なことだ、と今更ながらに気付いた。
あえてキリスト教徒について私が感じたことをもう少し述べれば、考える上でその背景を同じくする人たちが多いということは互いの理解を少なからず助ける、その意味で欧米の人々もフィリピンでは、他国に比べて仕事がしやすい面があるのではないかと思ったくらいだ(しかしこのことは時間が不足して十分に話を聞けなかったことが残念)。聖書はやはり世界の「ベストセラー」なのだ、と実感した。
2. 「ちがう」ということ
習慣の様々な違いは、その土地の気候風土、歴史、経済状態など様々な要因が作り出すことだが、今回とにかく目を引いたのは「野菜を食べない」という事実だった。食欲旺盛な私は「野菜」恋しさに色んなことを考えさせられたのだった。(もちろん事実とは著しく異なる感想かも知れない。)経済的に(個人ではなく)「肉食」はお金がかかる。人も時間も沢山必要だ。だからこそ「有り難い」ものなのだろう。
実際に体にどれだけ必要かどうか、という問題を別にすれば単純に金銭的な意味ではなく手間暇がかからない「野菜」は有難味がない。火山跡の土地にも草木の生い茂る様子を見たときに「日照りに不作なし」という言葉が思い浮かんだ。
このように風土条件でも人の好みは著しく異なる。異なる好みが異なる文化を創り、それが異なる背景として広く大きく立ちはだかっている。この背景の存在が旅を楽しいものにし、国際協力を難しくしている。そこに歴史が絡むからもっと楽しくて難しくなる。
異なると言えば、もう一つ。英語は一応共通言語だ。でも私たちは日本語で考えるし、彼らはタガログ語で考える。
(聖書だってタガログ語で読む。)英語で話すからわかりやすくて良いけれど、英語を使うから理解が制約される場があるということにも悩まされた。1対1では「同じ人間」でもあり「異なる存在」でもある。国で捉えれば「同じ人間の国」「同じアジアの国」とも言えるが「異なる気候条件の国」でもあり「異なる歴史の国」でもある。「面白い」。その一言に尽きる。
最後ではあるが、この研修に参加させていただけたこと、一緒に研修に参加し支えて下さったメンバーに、この研修に携わる全ての方々に感謝したい。